下谷地遺跡
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| 所在地 | 新潟県柏崎市吉井 |
|---|---|
| 座標 | 北緯37度23分51秒 東経138度37分27秒 / 北緯37.39750度 東経138.62417度座標: 北緯37度23分51秒 東経138度37分27秒 / 北緯37.39750度 東経138.62417度 |
| 歴史 | |
| 時代 | 弥生時代 |
| 文化財指定 | 1979年-国の史跡 |
下谷地遺跡 (しもやちいせき)は、新潟県柏崎市吉井にある弥生時代中期の低湿地遺跡。1979年(昭和54年)6月4日、国の史跡に指定された。
調査の経緯
遺構
上述の調査で、住居と見られる平地建物跡6棟、掘立柱建物跡12棟、土坑160基余、方形周溝墓4基(他に可能性あるもの2基)が検出され、多くの石器、石製品、土器が出土した[3]。
建物跡
平地建物跡とされる遺構は6棟あるが、発掘調査進行中の時点では、これらの遺構を墳墓とみなす見解もあった。1号から4号までの建物跡は、規模の違いはあるが、おおむね以下のような構成になる。すなわち、中央に土坑があり、これを囲んでピット群が平面円形に配置され、その外側には周溝がめぐる。3号建物では中央の土坑から炭が検出されており、この土坑は炉であるとみられる。その周囲のピットは、一部に柱根が残存することから、柱穴であることがわかる。その周囲の溝については、ところどころに切れ目があり、周溝というよりは土坑を連続させたもののようにみえる。4棟のうち規模の小さい4号建物は、ピット群が作る円の径が約5メートル、周溝の内径が11から12メートル。規模の大きい1号土坑は、ピット群の径が約7メートル、周溝の内径が14メートルとなっている[4]。
5号建物とされる遺構は、周溝はあるが、中央の土坑とピット群がなく、建物ではなく墳墓の可能性もある。6号建物は、中央の土坑と円形配置のピットはあるが、周溝がない。遺跡所在地が低湿地であることと、そのなかでも比較的高い位置にある6号建物のみ周溝を欠くことから、周溝は湿気抜き・排水のための施設とみられる[5]。
掘立柱建物
掘立柱建物跡は12棟確認されている。柱穴から弥生土器が出土すること、古墳時代以降の遺物がほとんど出土しないことなどから、これら建物跡は弥生時代のものと判断される。弥生時代の掘立柱建物遺跡は例が少なく、1つの遺跡から12棟も確認されるのは異例である。建物の構造や性格は不明であるが、当地が低湿地であることから、高床建物があったと推測される。各遺構の方位や規模はまちまちであり、すべての建物が同時に存在したものではない[6]。
土坑
土坑は160基余が検出されている。うち、梯子の出土したものが3例ある。50号土坑では土坑内に立てかける形で梯子が出土しており、この土坑は貯蔵穴であったとみられる[7]。
方形周溝墓
方形周溝墓とみられる遺構は4基ある。形態的には四隅に陸橋を設ける点が特色である。4基のうち、主体部(埋葬施設)が確認されたのは3号・4号墓のみで、4号墓には木棺を直葬した痕跡がある。いずれも規模が小さく、方形周溝墓としては最小レベルのものである[8]。
遺物
土器
土器は畿内系の櫛描文土器、信州系の栗林式土器、東北系の天王山式土器の3種類が出土している。ただし、全体の9割を櫛描文土器が占め、天王山式は1片が出土したのみである[9]。
石器
石核、石鏃、石錐、石包丁などのほか、玉造りの道具である擦切具、楔形石器が出土している。擦切具は、従来「石鋸」と呼ばれていたもので、原石に擦切溝を切るために用いられる。楔形石器は石を打ち割るためのものである[10]。
玉造り遺物
管玉の完成品のほか、その作業工程を示す資料(石核、板状剥片、角柱状剥片、多角柱など)が出土している。管玉の製作工程は以下のようになっている[11]。
- 原石から石核を得る。
- 石核から板状剥片を剥離する。
- 板状剥片から角柱状剥片を剥離する。
- 角柱状剥片を調整して正四角柱とする。
- 正四角柱を研磨して多角柱とする。
- 多角柱に穿孔する。
- 表面の磨き上げ。
