八つ松
From Wikipedia, the free encyclopedia
歴史
愛知郡相原村字八ツ松を前身とする[7]。後述の通り、当地には古くから往還が通っていたが、人が居住するようになったのは比較的歴史が浅い。
鎌倉時代に鎌倉往還が整備され、八つ松東公園付近には猿投古窯群の古窯NA301号窯(尾山池古窯)が鎌倉時代から室町時代にかけて建造された[8]。
字八ツ松の最初の開墾者は1840年~1860年の間に居住した「本多家」、「伊藤家」、「荒木家」であり、本多家は相原郷から、伊藤家は尾張西部から、荒木家は港区稲永方面からそれぞれ水害の影響で移住したと伝わる[7]。
明治18年時点での世帯数は5世帯であった。昭和初期までは養蚕業が盛んであったが、戦後に農業経営が比較して立ち遅れたため、伊藤勘太郎氏が八ツ松にブドウを導入し、推奨した[7]。
前述したNA301号窯の通称名尾山池古窯は、現在の八つ松東公園及び調節地に存在した「オヤマ池」の東岸にあったことに由来する[9]。オヤマ池は天保十2年の相原村絵図に「ナルミ池」とあり、明治20年の文書には「八つ松池」と記載されていた[9]。
- 旧鳴海町字八ツ松周辺の航空写真(1969年撮影)。写真右下に見える池がオヤマ池である。写真中央付近の鎌倉往還のY字路にあるのが八ツ尾八幡社である。
- 1960年代の旧鳴海町八ツ松付近の地図。
地名の由来
鳴海町の小字名「八ツ松」による。当地にかつて鎌倉街道が通っており、街道沿いの8本の良い松が人々の目に留まったことで「八ツ松」と呼ばれたという[10]。
地名は江戸前期から確認でき、『寛文村々覚書』に「鳴海村...八ツ松山」とある。
行政区画の変遷
世帯数と人口
学区
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる[15]。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる[16]。
| 丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 | 高等学校 |
|---|---|---|---|---|
| 八つ松一丁目 | 全域 | 名古屋市立大清水小学校 | 名古屋市立鎌倉台中学校 | 尾張学区 |
| 八つ松二丁目 | 全域 |
施設
- 八ツ松西公園
- 八ツ尾八幡社
