内田浩一
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4歳の時に両親が離婚し、2歳下の妹と共に児童養護施設に預けられた[1]。中学時代は自転車で2時間も掛かるゴルフ場に行き、キャディのアルバイトをしていた[1]。「お金を稼ぐ仕事がしたい」と思っていた内田は、祖母が船橋競馬場の馬主と知り合いであったこともあり、騎手を目指す。競馬学校に入学するが、それまでは馬に乗ったこともなく、競馬も見たことがなかった[1]。
1988年に栗東・池江泰郎厩舎からデビューし、同期には岡潤一郎・岸滋彦・千田輝彦・菊沢隆徳らがいた。1年目の同年は3月5日の阪神第3競走4歳新馬・ヤマニンホーマー(9頭中6着)で初騎乗を果たし、4月10日の阪神第6競走4歳400万下をアルピガで逃げ切って初勝利を挙げた。初年度は8勝をマークし、2年目の1989年に初の2桁となる11勝を挙げ、同年から2004年まで16年連続2桁勝利を記録。1989年は11月18日の京都で初の1日2勝、同25日と翌26日には中京で初の2日連続勝利をマーク。
3年目の1990年には自己最多の26勝を挙げ、中日新聞杯を15頭中10番人気のドウカンジョーで制して重賞初制覇。ラッキーゲランでは函館記念でトップハンデ57.5kgながら2馬身差の快勝で重賞2勝目を挙げ、毎日王冠ではオサイチジョージ・バンブーメモリーを破って3勝目を挙げる。菊花賞ではメジロマックイーンでGI競走初制覇を果たす(後述)。
1991年はメジロマックイーンについては、武豊へ乗り代わりとなった[2]が、同年の函館3歳ステークスでアトムピットに騎乗し、サンエイサンキューをアタマ差退けて重賞5勝目を挙げる。マックイーンが断然人気に応えた京都大賞典ではコウエイダッシュに騎乗し、ミスターシクレノンをハナ差抑えると同時にダイユウサク・メジロパーマーに8馬身差付ける3着に入った。
1993年はラビットボールで京都牝馬特別2着から中山牝馬ステークスを制し、ラッキーゲランでは金杯(西)で2着から8着まで同タイムでハナ差という史上稀に見る大激戦を3着とし、マックイーン5馬身差圧勝の産経大阪杯では3コーナーまで逃げて最後はナイスネイチャに交わされるも3着に粘った。11月6日の福島第10競走会津特別・メジロレノンズで通算100勝を達成。
1994年はタイキデュークで阪神で行われたきさらぎ賞・京都4歳特別を共に3着とする。1995年はフリーとなり、1996年の金杯(西)では16頭中15番人気のホウエイコスモスで道中は逃げるイナズマタカオーをナリタキングオーと共にマークし、直線ではミッドナイトベット・エリモダンディーに交わされるも3着に粘った。1999年にはシンカイウンで中京記念をオークス馬エリモエクセルの3着とし、続く中日新聞杯では連覇狙うツルマルガイセンに3馬身差付けて快勝。人気に応えて6年ぶりの重賞制覇を挙げるが、自身最後の重賞制覇となるが、中日新聞杯が行われた3月7日には第12競走4歳以上500万下・プレゼントシチーで200勝を達成。2005年には9月3日の小倉第1競走2歳未勝利・ドナラークで300勝を達成するが、同年はデビュー以来となる8勝に終わる。
2006年からは騎乗機会確保のため、それまで一度も騎乗したことのなかった障害にも騎乗するようになった[1]。デビュー後に障害の免許を返上して平地のみで騎乗する騎手も多い中、デビューから19年目での障害競走初騎乗というのは極めて珍しい例である。同年は障害2勝も含む11勝と2年ぶりの2桁をマークするが、自身最後の2桁となった。小倉サマージャンプでは12番人気の九州産馬・コウエイトライの逃げ切り許すも、キングジョイで10馬身後ろの2着に入った。
2007年1月13日の京都第8競走牛若丸ジャンプステークスでサフランブリザードに騎乗し、競走中に落馬。頭蓋骨を骨折するなどの重傷を負ったが、療養の末、同年4月に無事復帰を果たした[3]が、同年は自己最低の5勝に終わる。同22日には京都第4競走障害4歳以上未勝利・トーワスラッガーで復帰後初勝利を挙げるが、同年初勝利で最後の障害勝利となった。ウエスタンダンサーでダート短距離の未勝利→500万下を連勝し、ブルーショットガンの障害転向初戦に騎乗することもあったが、8月25日の小倉第7競走3歳未勝利・メイショウセイランが自身最後の勝利となった。
2008年からは清水出美厩舎の所属となり、3月20日付で騎手を引退することとなった[4]。2月11日の京都第4競走障害4歳以上未勝利・グラントリアノン(12頭中12着)が障害最後の騎乗、3月16日の阪神第5競走3歳新馬が最後の騎乗となる。かつて所属していた池江厩舎のケイアイフェラーリで1番人気に推されたが、手応え良く2番手を進んだが直線の伸びを欠き6着であった[4]。レース後にウイナーズサークルで引退式が行われ、騎手仲間から胴上げされて[5] [6]3度宙に舞った。なお、最後の騎乗レースのゼッケンと実際に使用されたゴーグルはそれぞれサインが入り、抽選で競馬ファンにプレゼントされた。最終騎乗日に中山で、マックイーンの産駒であるホクトスルタンがサンシャインステークス(1600万下)、ヤマニンメルベイユが続く中山牝馬ステークスを制し[7]、一部マスコミでは当日を「マックイーン・デー」と称した。
引退後は清水厩舎の調教助手に転身し、清水の定年後は松下武士厩舎所属となり、2019年の阪神ジュベナイルフィリーズを制したレシステンシアなどを担当[8]。騎手時代は自分の稼ぎで妹の学費を払うなど真面目で心優しく[9]、その人柄から労働組合の副委員長を務めたこともあった[1]。