割塚通
From Wikipedia, the free encyclopedia
歴史
大正5年(1916年)神戸市葺合町の一部から成立[2]。初め神戸市の町名で、区制施行で昭和6年(1931年)からは神戸市葺合区、葺合区が生田区と合併して昭和55年(1980年)からは神戸市中央区の町名となった[2]。 昭和47年(1972年)、筒井町一~三丁目・脇浜町一~三丁目の各一部を編入[2]。
町名の由来は和里墓[3]または和里塚[4]と呼ばれた古墳があったことから[2][5]。この割塚古墳は古墳時代後期の横穴式石室を持つ円墳とみられている[5]。布敷首(ぬのしきのおびと)なる古代の豪族の墓と信じられていて、大正15年(1926年)に建てられた「布敷首霊地」の碑もあるが、実際の被葬者は明らかではない[5]。塚の名前については『五畿内志』および『摂津名所図会』では由来不明とあるが[2]、『葺合懐古三千年史』によれば豊臣秀吉が大坂城を築城する際に石材確保のために古墳を破壊して大石を持ち去ったために「割塚」と呼ばれるようになったのだという[2][5]。「黄金千枚が埋められており村が疲弊したら黄金を掘り出せ」という言い伝えもあった[2][5]。 塚の上にはいつからか稲荷神社が建てられていた[2][5]。昭和11年(1936年)、阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)が高架で三宮へ乗り入れる際に当地域の西側へ春日野道駅が設置される事になったため、塚と稲荷神社は撤去され[5]、元の位置から南西へ20mの市立更生援護相談所の横に割塚古墳跡の標石と石碑が立てられた[2][6]。