北京の戦い (1215年)

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北京の戦い
モンゴル帝国の金朝征服
戦争第一次対金戦争
年月日太祖9年/貞祐2年8月 - 太祖10年/貞祐3年3月(1214年 - 1215年
場所:北京大定府(現在の内蒙古赤峰市寧城県
結果:モンゴル軍による北京の占領
交戦勢力
モンゴル帝国 金朝
指導者・指揮官
ムカリ
石抹エセン
史秉直
史進道
史天倪
史天祥
奥屯襄
完顔胡速
戦力
不詳 20万
損害
不詳 不詳

北京の戦い(ほっけいのたたかい)は、1214年から1215年にかけて行われたモンゴル帝国軍による金朝領北京大定府(現在の内蒙古赤峰市寧城県)の包囲戦。包囲戦は左翼万人隊長のムカリ率いる軍団によって行われ、1215年3月までに北京は陥落した。北京包囲は漢人として最も早期にモンゴルに降った史氏一族によって主導されており、陥落した後の北京は史氏一族の一時的な根拠地として用いられることとなった。

なお、『元朝秘史』には「皇弟のジョチ・カサルによって北京城が攻略された」と記されるが、後述するようにこれは複数の記録を混同したもので、史実ではない。

北京大定府の前身は遼朝(キタイ帝国)族を統治するために置いた中京大定府であり、モンゴル高原と華北を結ぶ要衝として大定府は遼朝・金朝双方から重視されていた[1]。『金史』巻24地理志によると北京大定府には64,047戸を有する重鎮であり、いわゆる遼西地方の中心的集落であった[2]

1211年より金朝に侵攻していたチンギス・カンは1214年に金朝と和議を結び、一旦華北から離れたが、モンゴル軍を過度に恐れた金朝朝廷は河南の開封への遷都を断行し(貞祐の南遷)、これを和議違反と見なしたモンゴル軍は再侵攻を開始した[2]。この時チンギス・カンは左翼万人隊長のムカリに遼西地方の経略を委ね、ムカリ率いる軍団は1214年8月より遼西地方の平定を開始した[2][3]。なお、同時期の遼東地方の経略はイキレス部のブトゥ・キュレゲンに委ねられていた[4]

一方、モンゴルの最初の華北侵攻で投降した漢人は郷里を離れ、モンゴル軍の基地が置かれた魚児濼(現在のダライ・ノール)に移住していた[5]。この時魚児濼に居住していた史氏一族は恐らく新たな居住地を求めており、魚児濼からほど近い北京大定府を最も好条件の移住地と見なしていたと考えられる[6]。史氏一族を代表してモンゴル軍に参加していた史天倪は、ムカリに対して「遼水の東西諸郡は、金朝の腹心の地です。我が大寧(=北京大定府)を得れば、金朝は遼陽(遼東の中心都市)を保つことはできなくなるでしょう」と述べて北京大定府攻略を献策していた[2][原史料 1]。ムカリは史天倪の献策を受け入れ、こうして史氏一族の主導によって北京大定府攻略が進められることとなった。

戦闘

モンゴル軍が遼西方面に進出してきたころ、北京は金朝の守将の奥屯襄(『元史』ムカリ伝での表記は「銀青」)が駐屯していた[7][原史料 2]。奥屯襄はムカリ軍を撃退するべく20万の軍勢を率いて出撃したが、死者8万を超える大敗を喫して敗走し、北京に籠城せざるを得なくなった[7]

1214年8月よりモンゴル軍は北京の包囲を始め、この包囲戦には契丹人石抹エセン[原史料 3]のほか、史秉直[原史料 4]史進道[原史料 5]・史天倪[原史料 6]・史懐徳・史天祥[原史料 7]ら戦闘能力のある史氏一族全員が参戦していた[8]。ムカリ軍は周辺の恵和・金源・和衆・龍山・利建・富庶といった諸城を陥落させたものの、遼西の重鎮である北京大定府はなかなか降らず、包囲戦は1215年まで長引いた[9][8]

包囲戦の最中、史天祥は金朝の将の完顔胡速を捕虜とした。ムカリは完顔胡速を処刑しようとしたが、史天祥は「一人の将を殺した所で敵軍を損なうことはなく、むしろ天下の人々の敵愾心を煽るだけである」として完顔胡速を助命・登用するよう勧め、ムカリはこれを受け入れて完顔胡速を千戸に任じたとの逸話が伝えられている。

一方、北京大定府を守る金朝側では、1215年正月に北京宣撫使兼留守の奥屯襄が配下の北京宣差提控の完顔習烈に殺されるという事件が起こった[10]。完顔習烈もまた配下によって殺されてしまったが、これにより金朝側の統制は低下した[10][原史料 8]

1215年3月、モンゴル軍による総攻撃が始まると、史懐徳は城壁の攻略で先陣を切り、敵将2名を捕虜とする功績を挙げたが、流れ矢に当たって戦没してしまった[8]。史懐徳の犠牲もあってモンゴル軍は北京を陥落させることに成功し、奥屯襄の後任として北京を守っていた元帥の寅答虎・烏古倫らは投降した[10][原史料 9]

戦後はムカリ配下のウヤルが北京路都元帥に、史秉直が尚書行六部事にそれぞれ命じられて北京を統治した[8]。これ以後、史氏一族は真定府に移住するまで北京大定府を根拠地としてモンゴル帝国内での地位を固め、やがて漢人世侯の代表的存在としてモンゴル帝国内で繁栄することとなる[11]

『元朝秘史』の記述

脚注

参考文献

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