南久宝寺町
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河川
歴史

1872年(明治5年)まで、現在の3丁目と4丁目のうち御堂筋沿いは北久宝寺町5丁目、佐野屋橋筋沿いと渡辺筋沿いは上難波町、西横堀川沿いは西笹町という町名だった。
江戸時代から小間物問屋が集積した問屋街としての歴史を持ち、戦後は衣料品や服飾雑貨(カバン・袋物・傘・靴など)を扱う現金問屋街となった。バブル崩壊頃より閉店する問屋が増え、かつての活気は失われつつあるが、いまなお大阪では有数の問屋街の一つである。
明治以降、南北久宝寺町は秋の誓文払い[注釈 1]の売出しで盛大を極めた[6]。
南久宝寺町を含む中船場は、日常使う言葉や商家の風習なども「戦前までの船場的スタンダード」といった雰囲気をよく醸し出していた[7]。
1962年(昭和37年)に埋め立てられた西横堀川には助右衛門橋が架橋されていた。
地名の由来
当地に久宝寺という寺院があったことに由来するという説と、道頓堀川が開削された際に河内国渋川郡久宝寺村(顕証寺の寺内町)から多くの人夫が来て、当地を住地にしていたことに由来するという説の2つがある[8]。
南久宝寺町問屋街

南久宝寺町の問屋街としての歴史は古く、江戸中期にさかのぼるという。管などの日本髪用の頭飾品を中心とした小間物に始まり、その後洋装用装身具に変化しながら、粧装品卸商の町として栄えてきた。小間物商はその種類は雑多であるが、南北久宝寺町を第一として、南北久太郎町・唐物町・博労町に多かった。明治元年、三休橋筋南久宝寺町通下る東側に大阪小間物卸商同業組合[注釈 2]の事務所が置かれるなど、南北久宝寺町は小間物商の中心的地域であった。明治、大正、昭和と時代の変わるうちに、各問屋も化粧専門の店、或いは小間物専門の店へと専業化の道をたどった。特に戦時中小間物も、簪、櫛と言ったものがネックレス、手袋、下着といった風に婦人の装粧品を中心とするものになった。アクセサリー、化粧用具、身辺雑貨(婦人下着、その他)、ブラシ、理容用品、頭飾品、室内アクセサリー(人形、オルゴールなど)、婦人衛生用品、袋物等と商品の種類も非常に多くなっていった。1930年代後半から統制経済によって商業活動は困難になり、1945年3月の大空襲によって壊滅した。しかし、戦後の1946年春頃から営業を再開する店や新たに開業する店が出始め、1948年 には昔日の久宝寺間屋街を偲ばせる迄に復興開店した。戦後の立直りが早かったのは、他の商品に較べて統制が割に少なかったからである。高度成長期には建物のビル化も進んだ。1958年に大阪久宝寺町問屋連盟が発足し、1963年には堺筋に久宝寺卸連盟会館が完成。2014年に板屋橋筋に新館が建てられた。かつての南久宝寺町通は狭い道幅であったが、都市計画により八間道路となった。戦後、通りの歩道地下に塵芥容器を設置し、上部にはアーケードが1970年に完成。50年を迎えた2020年にアーケードを撤去し、オープンモールの通りとなった[9][10][11][12][13][14][15][16]。
世帯数と人口
2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
| 丁目 | 世帯数 | 人口 |
|---|---|---|
| 南久宝寺町一丁目 | 672世帯 | 824人 |
| 南久宝寺町二丁目 | 373世帯 | 517人 |
| 南久宝寺町三丁目 | 75世帯 | 82人 |
| 南久宝寺町四丁目 | 229世帯 | 325人 |
| 計 | 1,349世帯 | 1,748人 |
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
| 1995年(平成7年) | 359人 | [17] | |
| 2000年(平成12年) | 306人 | [18] | |
| 2005年(平成17年) | 642人 | [19] | |
| 2010年(平成22年) | 1,070人 | [20] | |
| 2015年(平成27年) | 1,621人 | [21] |
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
| 1995年(平成7年) | 158世帯 | [17] | |
| 2000年(平成12年) | 153世帯 | [18] | |
| 2005年(平成17年) | 451世帯 | [19] | |
| 2010年(平成22年) | 824世帯 | [20] | |
| 2015年(平成27年) | 1,244世帯 | [21] |