立売堀
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歴史
江戸時代から地域の南部に立売堀川、北西部に薩摩堀川、西端部に百間堀川が流れていたが、昭和中期に埋め立てられた。江戸時代から材木の集散地として栄え、大正以降は金属や機械などの問屋街が形成されている。また、最近まで立ち売り(客に見えやすいように材木を立てかけ販売する)を行う材木業を営む店もいくつか残っていたが、マンション建設、再開発などによりその数を減らし、当時の名残はほとんど見られなくなっている。
地名の由来
地名には諸説あり、どれが正解かは不明であるが、代表的なものは以下のとおり。
『摂津名所図会大成』によると、大坂冬の陣・夏の陣で伊達氏がこの付近に堀をつくり陣地を構えていたこと、その跡を掘り足して川としたことから初めは伊達堀(だてぼり)と呼んでいたが、そのうち「いたちぼり」と呼ばれるようになった。後に材木の立売りが許されるようになったので漢字のみ「立売堀」と改められた、とのことである[5][注 1]。
元和(1615年~1624年)の頃、土佐藩が幕府の許可を得て材木市場を開設、材木の立ち売り(客に見えやすいように材木を立てかけ販売する)を行ったことを由来とする説もある。
町名の変遷
江戸時代の町名は三右衛門町(さんえもんちょう)・中橋町・船坂町・薩摩堀中筋町・薩摩堀東之町・納屋町(なやまち)・百間町(ひゃっけんまち)・吉田町・西国町・立売堀一から四丁目・孫左衛門町・助右衛門町・立売堀中之町・立売堀西之町となっていた。
1872年(明治5年)に阿波座三番町・阿波座四番町・薩摩堀北之町・薩摩堀東之町・薩摩堀南之町・薩摩堀裏町(もと納屋町)・薩摩堀西之町(もと百間町)・立売堀裏町(もと吉田町・西国町)・立売堀北通一から六丁目・立売堀南通一から六丁目となった。1924年(大正15年)に薩摩堀裏町が島津町に、立売堀裏町が立売堀北通七丁目に変更。1960年(昭和35年)に阿波座三番町の西半・阿波座四番町・薩摩堀の五町が立売堀上通一から三丁目となり、立売堀北通・立売堀南通も再編の上どちらも一から六丁目となった。1978年(昭和53年)に立売堀上通・立売堀北通・立売堀南通および江之子島東之町・江之子島西之町の各中央大通以南を統合して住居表示を実施。
世帯数と人口
2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
| 丁目 | 世帯数 | 人口 |
|---|---|---|
| 立売堀一丁目 | 842世帯 | 1,229人 |
| 立売堀二丁目 | 231世帯 | 329人 |
| 立売堀三丁目 | 813世帯 | 1,337人 |
| 立売堀四丁目 | 1,038世帯 | 1,505人 |
| 立売堀五丁目 | 665世帯 | 1,122人 |
| 立売堀六丁目 | 1,215世帯 | 2,041人 |
| 計 | 4,804世帯 | 7,563人 |
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
| 1995年(平成7年) | 3,575人 | [6] | |
| 2000年(平成12年) | 3,985人 | [7] | |
| 2005年(平成17年) | 5,006人 | [8] | |
| 2010年(平成22年) | 6,039人 | [9] | |
| 2015年(平成27年) | 6,374人 | [10] |
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
| 1995年(平成7年) | 1,349世帯 | [6] | |
| 2000年(平成12年) | 1,742世帯 | [7] | |
| 2005年(平成17年) | 2,975世帯 | [8] | |
| 2010年(平成22年) | 3,358世帯 | [9] | |
| 2015年(平成27年) | 3,649世帯 | [10] |