司馬達等
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出自
『元亨釈書』に「司馬達等南梁人,継体十六年来朝」とあるが、この「南梁」は、継体天皇十六年(521年)が梁武帝の治世に当たるところから創作された言辞に過ぎないとする論調が多いが、原史料名を明言しない虎関師錬の筆致を鑑みると、『元亨釈書』編纂時に「南梁」と記した異伝を参照した可能性を排除できない、とする見解もある[4]。
『日本書紀』雄略天皇条に記載される鞍部堅貴の一族[5]。一方、中井真孝は「達等は堅貴と血縁のつながりはなく日本に渡来するや鞍部に編入されあるいは擬制的に鞍作村主の一族に属せられた」と指摘している[4]。直林不退は、「両者(司馬達等と鞍部氏)を同一の血縁関係を持つ直系の後裔であったと断言するのは些か躊躇せざるを得ない」として、「波動的渡来」の可能性を指摘しており、複数の時期・地域からの同系職種の技術者の渡来があり、そのなかに、同じ血脈に連なるもの、地域を同じくする者同士が、先縁を辿って移住したとする[4]。
直林不退は、「司馬達等との直接的血縁関係が存在しないとしても応神・仁徳朝及び雄略朝に渡来したとされる鞍部氏に於いても、中国華南地方との関わりが窺えるのも興味深いところであろう」として、鞍部氏と百済との関係自体は『元興寺伽藍縁起』の一節に「百済鞍部多須奈」と記されており、「現況では、平野邦雄氏のいう如く『南梁→百済→日本』とのルートを考えるのが最も自然ではなかろうか」「南梁・百済を経由しての渡来」「司馬達等が日本に渡来した系路は、中国南朝・百済であった」として、『梁書』は、梁武帝普通二年(521年)百済が南梁に巻を上って遣使したとあり、『三国史記』は百済聖王十九年(541年)に梁武帝へ使を送ったとあり、南梁と百済の交流で種々の人的交渉が存在し、中国南朝から百済への移住があったとする[4]。
司馬達等の母国は、司馬達等の渡来時期の解釈から諸説ある。渡来時期が応神・仁徳朝の場合、中国漢高祖の末裔の阿知使主との同族関係が推定でき、雄略朝の場合は百済との関係が推定され、境野哲は「西晋滅亡後朝鮮に入ったか、東晋の後が呉の方面から朝鮮に逃れたかした其の司馬氏の系統の人」とする[4]。
なお、『扶桑略記』には大唐漢人(もろこしのあやひと)案部村主司馬達止とあるが、この「大唐」について橋川正は、百済「駕洛」とする異説を提起したが、堀一郎が反駁しており、中井真孝は「無理があるようである」「橋川氏の『駕洛』説は否定された」と評している[4]。
人物
考証
日本へ仏教が伝来したのは、552年に百済聖王により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとする説(552年説)と、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起』を根拠に538年に仏教が伝えられたとする説(538年説)がある。日本への公的な仏教伝来は、欽明朝のこととして間違いはないが、公伝以前の民間ルートでの仏教伝来が想定できる。すなわち「私伝」説である[6]。欽明朝以前の仏教伝来の根拠とされる史料に『扶桑略記』記事がある[6]。『扶桑略記』記事は、もと『坂田寺縁起』に記され、延暦寺僧『禅岑記』さらに『大日本国法華験記』に引用されたものに、『扶桑略記』が依拠したが、継体天皇十六年壬寅(522年)春二月に渡来した司馬達等が、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置して、帰依礼拝したところ、世人がこれを「大唐の神」なりと呼んだといい、以上から、公伝以前の仏教伝来が想定できる。つまり百済の王朝から日本の王朝へという公伝以前に、中国系渡来人によって仏教が既に伝えられていた[6]。
評価
楽敏は、「その当時日本列島に入っている漢民族の帰化人だけでは、各方面からの人材需要を満たすことができていなかった。そこで倭王政府は、外交ルートを通じて中国の各王朝に、必要としている数の技術工匠を支援してくれるよう要請していたし、百済を通して中国の工匠を招請している事実もあった。こうしてやってきた帰化漢人も、同じように日本の技術や文化の発展に貢献したのである。彼らが日本の彫刻、絵画、織物、刺繡などに、独特の風格をもたらしたことで、後の飛鳥文化の形成に向けて、しっかりとした基礎を築いたのである。日本の史書の記載によると、仏教の日本伝来も帰化漢人と関係がある。『叡岳要記』には、次のように記されている。応神三十年(299年)、漢の献帝の子孫と自称する高万貴という人物が、船で海を越えて日本にやって来た。彼は滋賀郡に構えた自らの住居の前に、農地から運んだ土で高さ3尺の比丘像を一体作り、仏教を宣伝し始めた。仏教の伝播に貢献したとして、後に彼は倭王から『三津百枝』という苗字を賜った。『扶桑略記』の記載では、522年、南朝司馬の子孫で司馬達止という人物が日本列島にやって来て、大和の高市郡坂田村に住んでいた。彼は草堂に住まい、倭人が見たことのない仏像に毎日のように額づいて、拝むように祭っていた。これらはみな伝説であるが、仏教が日本に伝わる過程において、帰化漢人が媒介の役割を果たしたことを表わしている」と評している[7]。