四分

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四分(しぶん)とは、唯識の中でも法相宗が伝えている学説で説かれたもので、元来、陳那までの論者が前三分であったものに護法が「証自証分」を付け加えて四分としたものである。心(しん)と心所(しんじょ)による認識論の上で、四つの局面〈bhāga〉があることを説明している。

  • 相分(そうぶん) - Nimitta-bhāga 認識の対象
  • 見分(けんぶん) - Darśana-bhāga 認識する主体による作用
 yad-ābhāsaṃ prameyaṃ tat pramāṇa-phalate punaḥ |
 savyāpāra-pratītatvāt trayaṃ kevalaṃ pṛthak ||〔集量論、Ⅰ,9〕
 [識に] 現じている姿(相分)が知られる対象(所量)であり、[それを捉える] 認識能力(見分)と、その結果(量果)は[識自体]である。なぜなら、[一つの認識の中に] 作用を伴うものとして知られるからである。ゆえに、この三つ(所量・量・量果)は、[識という] 一つのものにおいて分かれているにすぎない。

陳那は、後に有相唯識と呼ばれるように、相の存在を認めたように考えられている点に、注意が必要である。しかし、陳那著の『観所縁縁論』において「よく識を発こすを以って、比べて根の有るを知る。これただ功能のみ。外の所造に非ず」〔大正蔵、31巻、p.889a〕とあるように、根は「功能」であり外部に対象を認めるのではない。唯識なのであって、認識のはたらきとそれによって得られた結果が識自体であるとしている。

  • 自証分(じしょうぶん) - Sva-saṃvitti-bhāga 認識作用を自ら自覚する機能
 grāhakākārasaṃvittyos trayaṃ nātaḥ pṛthak kṛtam || 10 ||〔集量論、Ⅰ,10〕
ゆえに、把握者相(grāhakākāra)と把握対象相(grāhya/viṣayākāra)と自己認識(saṃvitti)の三つは、これ以上別々に立てられたものではない。

つまり、相分・見分によってを得られたということの確認である。

  • 証自証分(しょうじしょうぶん) - Sva-saṃvitti-saṃvitti-bhāga 自覚する機能をさらに自覚する機能
anavasthā iti tajjñāne jñānāntareṇa+anubhūyamāne.〔集量論 Ⅰ,11〕
別の認識によって経験されるとすれば、そこには無限後退が生じるのである。すなわち、その認識がさらに別の認識によって経験されることになるからだ。

証自証分については、陣那ではなく護法によって立てられた。陣那は「灯火は周囲の物を照らす(対象認識)と同時に、自分自身をも照らしている(自証)という性質を持つのと同じ」と言って、証自証分の必要性を認めないが、護法は無限遡行の危険性があるから証自証分を立てて、四分説をとるのである。〔成唯識論


四分と申し候は相分・見分・自証分・証自証分也。眼識にもこの四分あり、五十一の心所にもこの如し。〔唯識大意〕

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