孔緯
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経歴
幼くして父を失い、叔父の孔温裕や従叔父の孔温業に養育された。大中13年(859年)、進士に及第し、秘書省校書郎を初任とした。崔慎由が剣南東川節度使として出向すると、孔緯は召し出されて剣南東川節度従事となった。また崔鉉に従って淮南観察支使となり、協律郎の官を得た。崔慎由が河中節度・晋絳慈隰観察等使に転じると、孔緯はいずれもこれに従い、晋絳慈隰観察判官をつとめた。宰相の楊収の推挙により長安県尉に任じられ、弘文館に宿直した。御史中丞の王鐸の推挙により監察御史となり、礼部員外郎に転じた。宰相の徐商の上奏により集賢院学士を兼ね、考功員外郎となった。母が死去したため、孔緯は辞職して喪に服した。喪が明けると、孔緯は右司員外郎として入朝した。宰相の趙隠にその文才を称賛されて、翰林学士に推薦され、考功郎中・知制誥に転じた。中書舎人に任じられ、戸部侍郎に累進した。乾符年間、翰林学士を退任し、御史中丞となった。兵部侍郎・吏部侍郎を歴任した。吏部にあって権貴の請託が机に山をなしたが、孔緯はこれを無視した。宰相に憎まれ、太常寺卿に転じた[3][4]。
黄巣が長安を占領すると、孔緯は僖宗に従って成都府に避難し、刑部尚書となり、判戸部事をつとめた。宰相の蕭遘と合わず、散官に移されて、太子少保となった。光啓元年(885年)、僖宗に従って長安に帰った[5][6]。
田令孜の率いる禁軍が王重栄と李克用の軍に敗れ、李克用が長安に迫った。光啓2年(886年)、田令孜は僖宗を連れて鳳翔府に逃れ、邠寧節度使の朱玫が僖宗を迎えた。田令孜は僖宗を連れて山南に向かった。夜半の出立で百官は扈従することができず、僖宗に従ったのは黄門衛士数百人のみだった。僖宗が宝鶏県に宿営すると、孔緯は御史大夫に任じられ、宦官の使者により詔が伝えられて、百官を率いて行在に赴くよう命じられた。蕭遘や裴澈は田令孜が僖宗の側近にいることから行きたがらず、病と称して孔緯に会わなかった。孔緯は御史台の官吏を派遣して百官を急き立て、散関に入らせた。孔緯は朱玫に異心があることを察して、僖宗に早く梁州に向かうよう上奏した。翌日、僖宗が宝鶏県を離れると、朱玫の兵が宝鶏県を包囲し、散関を攻撃した[7][6]。
孔緯は褒城県に到着すると、兵部侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。ほどなく中書侍郎・集賢院大学士を兼ねた。光啓3年(887年)、王行瑜が朱玫を斬り、長安を平定すると、孔緯は門下侍郎・監修国史に転じた。僖宗に従って長安に帰る途中、岐山県に立ち寄ると、特進に階位を進められ、吏部尚書を兼ね、諸道塩鉄転運使を領知した。文徳元年(888年)、僖宗が宮城に帰ると、孔緯は尚書左僕射に進み、「持危啓運保義功臣」の号を受け、天興県の別荘と善和里の邸宅を賜り、京畿営田使を兼領した[8][6]。
僖宗が死去すると、孔緯は山陵使をつとめた。僖宗が廟に付されるにあたって、孔緯は故事に準じて、入朝しなかった。昭宗が宦官の使者を延英殿に派遣して孔緯を召し出すと、孔緯は司空を加えられた。国学が放火で焼かれると、孔緯は修築を命じられ、そのまま国子監祭酒を兼領した。龍紀元年(889年)、蔡州の秦宗権が殺害されると、孔緯は開府儀同三司の位を受け、司徒となり、魯国公に封じられた[9][6]。
11月、昭宗が郊祀をおこなうにあたって、両中尉と内枢密が朝服を求めた。太常寺の官は前例を引いて宦官の助祭の礼には朝服はないといい、少府監もまたもとより冠服の制はないといった。すると中尉が怒って、朝服の制を立てて、太常礼院に下させようとした。礼官や諫官たちがこれに反論した。孔緯は宦官の助祭に朝服を着せないのは国典であって、昭宗が寵愛する宦官に朝服を着せたいなら、兼官によって服を着せるようにと主張した。昭宗は孔緯の意見を諫官に伝えて、宦官の助祭に朝服を着させた。郊祀の礼が終わると、孔緯は太保を兼ねた[10][11]。
大順元年(890年)夏、盧龍軍節度使の李匡威と宣武軍節度使の朱全忠が河東節度使の李克用を討ちたいと求めてきた。宰相の張濬が自ら禁軍を率いて李克用を討ちたいと請願すると、昭宗は逡巡して孔緯に諮問した。孔緯は張濬による討伐に賛成した。この年の秋、張濬の軍が太原府を攻撃したが、大敗して帰還した。敗戦の罪を問われて張濬は宰相を退任して左遷され、孔緯も連座して検校太保・江陵尹・荊南節度観察等使とされたが、長安を離れないうちに、さらに均州刺史に降格された。孔緯と張濬はひそかに人を派遣して汴州に救援を求め、朱全忠が上書してふたりを弁護した。孔緯は商州までいたって、かれを助ける詔が届き、華州に寓居することとなった[10][12]。
乾寧2年(895年)5月、節度使の王行瑜・李茂貞・韓建が長安に乱入し、宰相の韋昭度と李磎を殺害すると、昭宗は孔緯を華州から召し出して入朝させようとした。孔緯は病のため上京できなかった。6月、太子賓客に任じられた。その日の夕方には吏部尚書に転じた。翌日、司空に任じられ、門下侍郎・同平章事・太清宮使を兼ねて、修奉太廟・弘文館大学士・延資庫使をつとめた。孔緯は駅騎の督促を受けて、病身を押して長安に入った[10][12]。
同州の王行約が長安に入って反乱を図ると、昭宗は石門に避難し、孔緯は昭宗に従って莎城までいたったが、病が重く、先に長安に帰った。9月、光徳里の邸で死去した。太尉の位を追贈された[13][12]。