宇治川電気51形電車

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宇治川電気51形電車(うじがわでんき51がたでんしゃ)は、宇治川電気(宇治電)が自社電鉄部[* 1][2]兵庫駅 - 姫路駅前駅直通運転開始に備え1927年より製造した通勤形電車である。

本項では宇治電社内で制御器形式からPC形車と呼ばれた[3]51形とその同系増備車である初代76形の2形式、及び神姫電鉄1形の木造車体を流用改造し、手持ち機器で電装して製造された2代目76形、それらの後身である山陽電気鉄道100・1000形についても紹介する。

第一次世界大戦後、日本の電力業界は供給力過剰に陥っていた。この時期に電力販路の確保を企図した電力会社各社は大口需要家であった電気鉄道を自社傘下に置く事を目指し、兵庫県下でも中国水力電気[* 2]と宇治電が兵庫電気軌道(兵庫電軌)の買収を目論んで交渉に火花を散らす状況となっていた[5]。この交渉の結果、兵庫電軌は宇治電との合併を決定[* 3]、これを受けてかねてより兵庫電軌との合併論があった神戸姫路電気鉄道(神姫電鉄)と宇治電の合併交渉が進んだ[* 4]。かくして宇治電は兵庫電軌・神姫電鉄の2社を順次吸収合併し兵庫-姫路間57.4kmの鉄軌道を保有する電鉄事業者となった[7]

これに伴い宇治電は合併した両社の事業を承継する形で電鉄部を発足、明石で接する両社線を繋いで兵庫 - 姫路間の直通運転を実施すべく地上施設[* 5]および車両の整備・改修を開始した。

しかし、元来軌道条例に依拠して道路上の併用軌道を走る路面電車からスタートした初期の都市間電気軌道であり、路面電車の面影を色濃く残していた兵庫電軌線と、建設当時のアメリカで流行していたハイスピード・インターアーバンを手本として、地方鉄道法の下で高規格かつ本格的な都市間高速電気鉄道として建設された神姫電鉄とでは、その地上設備・車両ともに規格差が極めて大きく[* 6]、いずれか一方の車両をそのまま直通運転することも不可能であった[13][7]

このため、双方の規格の最大公約数をとって[* 7]車体寸法を決定し、主要機器については高規格な旧神姫電鉄のものを基本に旧兵庫電軌区間への対応機能を付与する折衷設計を行うことで兵庫 - 姫路間の直通運転を可能とする直通車の製造計画が立てられた。こうして設計されたのが51形[* 8]である。

製造

本形式は神姫電鉄1形からの主要機器流用による車体新製車 (51 - 65) と完全新製車 (66 - 75) の2グループに大別され、さらにその改良増備車として76形 (初代・76 - 85) が追加製造された。

まず、1927年12月[14]に神姫電鉄1形1~15の内13両分の更新名義で以下の13両が藤永田造船所で製造された[15]

51形51 - 63

続いて1928年4月[14]に最初の2両は前回改造されなかった神姫電鉄1形2両分の更新名義で、残り8両は新造名義で、田中車輛にて以下の10両が製造された[15]

51形64 - 70

また同じく1928年4月[14]汽車製造会社で全車新造名義で以下の5両が製造された[15]

51形71 - 75

そして1930年[14][* 9]に増備車として川崎車輛で以下の10両が製造された[17]

76形76 - 85

もっとも、いずれも細部寸法や形状の相違はあれど基本的には同一設計で性能も同一であり、共通に運用された。

車体

設計当時の旧兵庫電軌線で運用可能な最大寸法である車体幅7フィート10インチ (2,386mm) 、車体長48フィート (146,304mm) 、車体高8フィート10 1/2インチ (2,705mm) の車体を備える。

既に鋼製車の時代に入っていたことから、神姫電鉄1形の木造シングルルーフ車体ではなく半鋼製リベット組み立てによるシングルルーフ車体となっており、窓配置は1D (1) 121 (1) D221 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓)で、戸袋窓と運転台のある両端の細窓以外の側窓は1段上昇式となっている。戸袋窓は1段固定式、両端の細窓は上方に横桟が入った2段式で、下段は開閉可能で上段相当部分は神姫電鉄1形の該当部分と同様に行先表示窓として使用された[18][19]

外観上扉間の側窓が戸袋窓を含め2枚単位でまとめられている点を含め、側面は基本的に神姫電鉄1形と共通のレイアウトである[15]。ただし、車体幅が縮小されたこともあり、神姫電鉄1形では左右2枚が広幅であった3枚の前面窓はいずれも同寸とされている[20]

客用扉は両端の扉が切り欠き構造のステップと折りたたみステップの2段構成となって併用軌道区間と鉄道区間の双方に対応するのに対し、本形式と同様に3扉構成であった兵庫電軌36形と同様に、中央扉は鉄道区間専用でステップは未設置とされている[20]

また、側窓下方に2本の保護棒が取り付けられていたが、これは後に1本が撤去された。

前照灯は着脱式で、標識灯は妻面向かって左側の前面窓窓上に1灯のみ装着された。

51形と初代76形は併用軌道区間を走行するため、いずれも前面下部に折りたたみ式の救助網を、床下にフェンダー・ストライカーをそれぞれ装着して竣工した[21][18]が、これは後に連結運転が常態化すると自動連結器を用いた連解結作業に支障をきたす[* 10]ことから救助網を撤去してフェンダー・ストライカーのみとなっている[* 11]

通風器は51形25両についてこの時期の鋼製車特有のいわゆるお椀形通風器を、76形10両はガーランド式通風器を、それぞれ搭載していたとされる[25]。もっとも、51形の汽車製造製グループ (71 - 75) については宇治電時代に既にガーランド式通風器を搭載していたことが新製当時撮影された写真で判明しており[21]、70以前は山陽電鉄へ移行後もお椀形通風器を残していたことと合わせ、これら51形の汽車会社製グループについては初代76形と同様に当初よりガーランド式通風器搭載であった可能性が高い。

車内運転台仕切りは床面から立ち上げた4本のパイプを天井の櫛桁に接合し、窓の下辺付近で横方向にパイプを渡して一部を可倒式とすることで乗務員の通行を可能とする、という開放的なデザイン[20][26]である。

座席はいずれも新造時はロングシートを各扉間に設置していた[20]

車体塗装は当時の定石通り茶色で、宇治電時代には側面の両端扉近くの腰板に社紋と車両番号を並べて掲げていた。

主要機器

車籍上は51 - 65はアメリカ製輸入機器を全面採用していた[27]神姫電鉄1形からの機器流用車であるのに対し、それ以降は日本製の同等機器を新製搭載したとされているが、実際には検査の都合もあり、輸入品と日本製が特に区別なく混用されている。

主電動機

機器流用車はゼネラル・エレクトリック (GE) 社製直流直巻整流子式電動機であるGE-263[* 12]が、新造車はGE社の日本における提携先である芝浦製作所によるスケッチ生産品であるSE-107B[28][29][* 13]が、それぞれ各台車に2基ずつ搭載されている。

元来GE-263は元々神姫電鉄1形において採用され、同形式で全界磁にて80km/h運転を可能とする原動力となった機種[27][31]であり、歯数比は神姫1形の基本設計を踏襲した宇治電51形以降でも63:23(2.74)と高速運転を重視した設定となっている。このため、初代76形に対し歯数比そのままで主制御器弱め界磁段の追加改造を実施した初代100形では、界磁制御の併用により最高100km/hでの走行も可能となっている[32]

駆動装置は当時一般的であった吊り掛け式である。

制御器

機器流用車はGE社純正の電空カム軸制御器であるPC制御器が搭載されたが、新造車は芝浦製のPC制御器模倣品であるRPC-101電空カム軸制御器が搭載された[* 14]。これらの制御器は共に直列5段、並列4段という構成で、後の改造で弱め界磁1段が追加された。いずれも主回路の主電動機群で直並列切り替えを行い、また電動発電機などの補機の回路切り替えを行うための電圧転換機を付加[34]、直流600V電化の旧兵庫電軌区間と直流1500V電化の旧神姫電鉄区間を直通運転可能な複電圧車としている。

電動発電機

RPC-101の制御電源用として、直流電動発電機(MG)である芝浦製作所CLG-1を搭載する[* 15][36]

台車

他の主要機器と同様、51 - 65に旧神姫電鉄1形のボールドウィン(BLW)ボールドウィン78-27.5Aあるいは78-25A形[* 16]形鋼組み立て式釣り合い梁式台車が流用され、66以降の各車にそれと同等の国産新製台車が装着された[15][38]とされる[* 17]

これらのボールドウィンA形系台車群は第二次世界大戦後、昭和34年[40]に山陽電鉄社内においてBW-1という社内形式を与えられ、メーカーによらず完全に互換の同等品として扱われた[36]

51形および76形(初代)が装着したこれらの台車は、新製当初はいずれも踏面片押し式の基礎ブレーキ装置を備えていた。

ブレーキ

空気ブレーキについても機器流用車グループについては神姫1形のそれをそのまま継承し、GE社製E-J7非常弁[41]による非常弁付直通ブレーキ[35]が採用された[42]。これに対し、完全新造車については機器流用車のGE製に対し芝浦製の同等品[* 18]が搭載された。

また、全車ともこの時代の電車の通例通り非常用として手ブレーキが搭載されており、車掌台側に巨大な手ブレーキハンドルが設置されている。

集電装置

当初は神姫電鉄1形と同様、ホイール式のトロリーポール[38]を前後に1基ずつ搭載した[* 19]

連結器

多客時に連結運転を実施するため、神姫電鉄1形と同様に各車の前後に自動連結器を装着する。

運用

本線全線で主力車として重用された。

宇治電時代には列車種別として兵庫 - 姫路間全線を運行する急行と直通、それに兵庫 - 明石(港)で運転される普通の3つの列車種別が存在し、51形と初代76形は電圧転換機を搭載する複電圧車であったことから、急行と直通、つまり全線を走る急行と普通相当の列車に充当された。急行は兵庫 - 姫路間を当初86分、途中駅の追い越し設備の整備や軌道改良などが進んだ1932年10月のダイヤ改正では所要78分まで所要時間の短縮が進んだ。

更に複電圧設計の直通車は、1940 - 1941年にかけて開業した網干線でも運用されるようになった。

特急運転

特筆すべきは、山陽電気鉄道発足後の1934年9月のダイヤ改正において新設され、所要70分で兵庫 - 姫路間を走破した速達列車種別である特急へ、当時の山陽電気鉄道が保有する直通車の中で最新の初代76形76 - 85が起用・充当されたことである[44]。途中長田西代須磨塩屋垂水明石駅前西新町東二見高砂大塩妻鹿飾磨に停車するこの列車への充当にあたっては、主制御器に界磁接触器を追加して運転台の主幹制御器にも弱め界磁段を新設した。またこれに伴い台車の基礎ブレーキ装置を踏面片押し式から踏面両抱き式に改造、つまり枕梁側からシューを車輪の踏面に押しつけるだけではなく、車輪の前後からブレーキシューを抱き込むように押しつけることでブレーキ力を増大させる機構に改造[45]された。

この改造は後に在来車全車に普及し、51形74が特急の種別表示板を掲げている姿も写真に残されている[46]が、これら初代76形10両については、さらに翌1935年に扉間で左右向かい合うロングシートのうち、中央扉を挟んで前後で千鳥配置となるように片方を撤去し、その跡に2人掛けの固定式クロスシートを設置する工事[* 20]が実施され、長距離直通客を重視する特急車としてのサービス向上が図られた[47]

またこれらセミクロスシート化された初代76形10両については車両のイメージアップをはかるため[45]1936年に以下の通り改番が実施され、初代100形となった[48]

76形76 - 80 →100形106 - 110
76形81 - 85 →100形101 - 105

もっともこの初代100形のクロスシートについては戦時体制下で山陽沿線への工場立地が急速に進み、網干線の建設が行われるなどして輸送力確保の要請が強くなったことなどから1940年に全車ともロングシートに復元され、長続きしなかった。

なおこの1940年から1948年にかけて51形・100形全車に対して各客用扉へのドアエンジン追加による自動扉化工事が実施され、乗客の安全性の向上が図られている[49]

2代目76形

1942年には輸送力確保のため、直通運転開始時に主要機器を取り外された状態で明石工場周辺に留置されていた旧神姫電鉄1形の木造車体の内、近江鉄道へ譲渡されなかった6両分の車体を線路方向に向かって中心線に沿って割断、約2.7m幅の元車体を中心部で0.3m分切り取って車体幅を51形などと同等の約2.4mとなるように切り詰めた上で各部材をつなぎなおし、車体を組み立て直す工事を実施した[50][51]。こうして完成した車体に山陽電鉄自社手持ちの機器を搭載・装着して2代目76形76 - 81とした[38]。もっとも、主要機器、中でも電装品の調達はままならず、計画では全て単行運転可能な制御電動車とする予定であったが、実際には76と78の2両のみが正規の制御電動車として落成、残る77・79 ー 81の4両は電装品が完全には入手できなかったため、主電動機は搭載されていたものの、単独での運転は不可能となった[* 21]

戦中

新造では初代76形に続く増備車となった200形第1・2次車の201 - 212は旧兵庫電軌車からの機器流用による車体更新車であったため搭載機器が直流600V用で、直流1,500V電化の明石以西への電動車としての入線は不可能であり[50]、また中期以降の200形増備車では複電圧対応となったものの、114 - 123の10両[* 22]以外は電装品の入手が叶わず、未電装のまま制御車として就役した[54]

そのため、1941年に初代100形の一部についてブレーキの制御動作に必要となる空気管の増設工事が実施され、それらは同年に制御車として落成した200形3次車である111 - 113と連結して運転された[47]

また1942年には先述の通り2代目76形のうち4両が資材不足で単独の制御電動車として使用出来ない状況であったため、51形59 - 62が改造されて2代目76形とペアを組む2両固定編成で運用された。

このように51・初代100形の山陽電気鉄道における主力形式としての役割や立場の重要性は戦前から戦時中まで変化はなく、そればかりか網干線開業による所要増もあり、戦時中を通じて酷使が続けられた。

被災

だが、1945年6月9日の第二次空襲[* 23]と、それに続く同年7月7日の第5次空襲に伴う火災[* 24]で直通車の基地であった西新町の明石車両工場及び明石車庫が繰り返し被災した結果、以下のように51形は25両中11両、初代100形は10両中5両、2代目76形は6両中3両をそれぞれ大破・焼損するという大きな被害を受けた[57]

1945年6月9日の空襲での被災状況
全壊:52・62・70・78(2代目)
大破:66・74・101(旧76)
中破:58・60・69・71・80(2代目)・105(旧80)
小破:57・81(2代目)・104(旧79)・110(旧85)
1945年7月7日の火災での被災状況
全焼:52・54・57・58・60・62・66・69 - 71・74・78・80・81・105・106・110

この19両のうち101と104を除く17両は、6月9日の川崎航空機明石工場を目標とした爆撃で被害を受けた後に7月7日の火災[58]に遭っており、破壊、焼亡と二重に被害を受けたことになる。これらの復旧は鋭意進められたものの、資材不足に加え6月9日の爆撃で27名もの職員を喪った[59]こともあって工事は中々進まなかった。このため最終的に車体の焼損程度が大きかった以下の7両は修理不能で1948年に廃車とせざるを得なかった[60][61]

51形:52・57・69・70
76形(2代目):78・80・81

戦後

こうして空襲に伴う車両被害の復旧が遅々として進まない状況下で、更に同じ1945年の9月18日の暴風雨、同年10月9日の集中豪雨、と相次いだ豪雨によって兵庫 - 高砂間の本線施設は各所で被害を受け、列車運行は麻痺状態に追い込まれた。

1946年半ばには旧兵庫電軌の車両や200形を含めて明石以東の軌道線用車両が合計23両、51・初代100・2代目76形および200形の複電圧対応車グループよりなる明石以西の鉄道専用車両が合計12両、復旧や新製により可動状態になって兵庫 -明石(20分間隔)、明石 - 姫路(30分間隔)、姫路 - 網干(40分間隔)の3区間に分けて運転が開始されていたが、車両不足は深刻であり、早急な車両の確保が急務になっていた[59]

それは、通常であれば新製車両の認可を得られる状況ではなかったにもかかわらず、また戦時中の仕掛かり品を仕上げただけで、車籍は事故廃車となった旧兵庫電軌車のそれを流用したものではあったが、200形グループの最終増備(第7次車)にあたる133 - 135が、戦後の日本の私鉄では最初の新造旅客車として並みいる他社の申請を差し置いて1946年に真っ先に認可された程の危機的状況であった[62]

こうした切迫した車両不足から、1947年に国鉄63形電車の割り当て車であり、全長20m、車体幅2.8m、自重41tと当時の山陽電気鉄道の施設、特に明石以東の設備では受け入れがたい巨体を備えた63800形(後の700形)20両の導入強行が決定した[63]

1948年に明石以東の架線電圧の直流1,500Vへの昇圧と車両限界の拡大、それに軌道強化工事が完了し63800形による兵庫 - 姫路間直通運転が開始されるまで、この時点で可動状態にあった在来車計35両は、さらなる酷使が続けられた。

1946年2月6日の須磨寺 - 境川付近[* 25]間下り線併用軌道[22]の移設完了による路上停留場の全廃に伴う乗降用ステップの撤去および前後扉車体裾部の切り落とし[47]、1947年3月の架線張り替えによる集電装置のパンタグラフへの切り替え、1948年10月21日の電鉄兵庫 - 電鉄須磨間架線電圧昇圧工事完成[* 26]に伴う電圧転換機など複電圧対応機器の撤去、改造、と線路施設の改良に併せて順次改修が行われたものの、この間充分な保守が行われていたとは言い難い状況であった。

なお、1948年には63800形導入に伴う車両限界の拡大でホームが削り取られた結果、ホームと在来車の間の間隙補正のためにステップの取り付け工事が実施されている[64]

1948年の昇圧完了後、車体幅2.4m以下の小型在来車については資材の調達次第で全電動車化の方針が立てられ[65]、後に200形に整理されたグループで実際に制御車として落成された車両への電装品艤装による制御電動車化工事が進められたが、51・初代100形の一部については逆に電装を解除し制御車化する工事が実施された。対象車は以下の9両である。車番からも明らかなように1945年7月7日の明石車庫の火災で被災し、その後復旧された車両が電装解除の対象となっている[48]

51形:54・58・60・62・66・71
100形:105(旧80)・106(旧81)・110(旧85)

改番

200形未電装車の電装実施と併せて1949年に実施された一斉改番の際には、51形、初代100形に2代目76形の残存車3両を加え、以下の通り電動車の100形100 - 123の24両及び、先に触れた戦災・車庫火災復旧の制御車である1000形1000 - 1009の10両、2グループ計34両に再編の上で改番された[48][66]

100形
旧51形:51・53・55・56・59・61・63 - 65・67・68・72・73・75 → 100 - 113
旧76形(初代)→旧100形:102 - 104(旧77 - 79)・107 - 110(旧82 - 85) → 117 - 123
旧76形(2代目):76・77・79 → 114 - 116
1000形
旧51形:54・58・60・62・66・71・74 → 1000 - 1006
旧76形(初代)→旧100形:101・105・106(旧76・80・81) → 1007 - 1009

なお、この改番では従来1から起番していた車両番号を0から起番する様に改めている[66]

この時期には、小型車の2両連結が常態化した事から、100・1000形グループの連結面側運転台の撤去工事が行われる[67]一方で、このグループは老朽化に加え車体幅が狭く、1947年の国鉄モハ63形導入に伴う車両定規の拡大でホームが削られた結果、ホームとの広い隙間を埋めるためのステップが増設されてもなお乗降に不安があることが保安上問題視されるようになった[* 27][51]

更新・改造・譲渡

このため、1950年に新造された850形に準じた設計の2.8m幅車体[* 28]を兵庫の川崎車輛で新造し、これに本形式の台車や主電動機、制御器などの主要機器を艤装して準新車を製造する250形への更新工事が開始され、まず第1次車として以下の4両の更新が実施された。

1951年10月竣工
114 - 116(旧:2代目76・77・79)・1000(旧54) → 250 - 253

このうち旧2代目76形の114 - 116は、前述の通り神姫1形の車体を流用改造したため、半鋼製ではなく木造車体のままであった。

ここで不要となった旧車体はそのまま廃棄・解体処分となる予定であった。だが、これら4両の竣工を目前に控えた1951年9月7日に発生した西代車庫の火災により、状況は一変する。この原因不明の火災で看板電車であった820・850形各1編成、700形1編成[* 29]、そして100形・1000形グループのうち以下の8両の合わせて14両が西代車庫での留置中に焼失してしまったのである[78]

101(旧53)・103(旧56)・104(旧59)・108(旧65)・1001(旧58)・1003(旧62)・1004(旧66)・1008(旧80→105)

このため、急遽廃棄予定の旧車体4両分(木造3両と半鋼製1両)の再利用が図られ、被災車から回収された台車などの機器およびその車籍を利用し、以下の組み合わせで1000形4両への復旧が実施された[48]。なおこれ以外の被災車である100形4両のうち、101・103は翌年の250形への更新対象とされ、残る104・108の2両は1951年中に廃車解体処分となっている。

114(旧:2代目76) → 1003
115(旧:2代目77) → 1004
116(旧:2代目79) → 1008
1000(旧54) → 1001(1000として復旧)

この後、1952年1954年と以下のように2両ずつ250形第2・3次車への更新が実施された。下記の通り1952年竣工分は2両とも西代車庫火災の被災車の復旧を兼ねており、1954年竣工分のうち1003→257は西代車庫火災の後、一旦廃棄予定だった木造車体を用いて復旧された。

1952年7月竣工
101・103 → 254・255
1954年9月竣工
107(旧64)・1003 → 256・257

この間、1953年から1957年にかけて、制御車である1000形を連結した編成と100形を2両連結した編成の性能差の大きさがダイヤ編成上支障をきたす様になった事から、当時残存した1000形4両について、戦時中に2代目76形77・79 ー 81で実施したのと同様に主電動機を台車に取り付けて特殊電動車と称し、100形電動車からそれらの電動機を制御するための配線を引き通す改造工事が実施され、固定編成化された[64][48]

1953年再電装
1006(旧74)・1009(旧81→106)
1956年再電装
1007(旧76→101)
1957年再電装
1005(旧71)

また1957年から1961年にかけて継続工事として天井板の金属板への交換、従前白熱灯であった室内灯の蛍光灯への交換、そして車内放送装置の設備が実施されている[64]

250形への更新については、第4次車258・259となるべき更新車の車体製作の準備が進められていたが、中止された。これは日本国有鉄道(国鉄)山陽本線電化工事進捗[* 30]をにらんで投入が開始された、画期的な高性能電車である2000系2000・2001の製作に258・259の車体新造予算が転用されたことによるものであった[71]

だが、そうして特急用として2000系の増備が進む間にも、戦中戦後の酷使で疲弊しきった本形式の残存車24両[* 31]の老朽化は急速に進行していた。その間、2000系投入に伴う余剰発生で戦災復旧車の除籍が以下の様に実施された。

1957年廃車
1000(旧58→1001[* 32]
1002(旧60)
1004(旧66)
1008(旧85→105)

だが、残存車についても長期に渡る酷使が原因で、既に車体の疲弊・老朽化が限界に達していた。このため、1959年より2000系3次車2008・2009に準じた準張殻構造の17m級軽量全金属製車体を新造[79]し、これに制御器・台車・ブレーキなどSE-107電動機[* 33]以外のほとんどの機器を新品に交換の上で搭載した[80]250形270番台への更新工事が再開された。

まず1959年に250形第4次車として以下の4両の更新が実施された。

1959年8月竣工[81][48]
100(旧51) → 270
102(旧55) → 271
111(旧72) → 272
113(旧75) → 273

以後の250形の増備は旧車籍を承継しない新造扱いとなり、これらへの機器供出に伴い以下の様に廃車が実施された。

250形第5次車274 - 283新造に伴う1960年廃車[48]
105(旧61)
106(旧63)
109(旧67)
110(旧68)
112(旧73)
117(旧82 → 102)
1005(旧71)
1006(旧74)
1007(旧81 → 101)
1009(旧76 → 106)
250形第6次車284 - 289新造に伴う1961年廃車[48]
118(旧83 → 103)
119(旧84 → 104)
122(旧79 → 109)

1962年に最後に残った120・121・123が以下のように貨車へ改造され[* 34]、これを以て全車旅客営業を終了した。

1962年改造[48]
120(旧:初代76形82) → モワ10
121(旧:初代76形83) → クワ30
123(旧:初代76形85) → クワ31

貨車化されたこれら3両も1970年に制御貨車のクト60形60・61の新造による代替で除籍・解体となり、ここに宇治川電気電鉄部51形に始まる2.4m幅車体で定員92名の100・1000形グループ[45]に由来する車両は、250形へ車体更新されたものを除き全て消滅となった。

譲渡

250形への更新の際に機器を供出した結果、発生した旧車体の一部が以下のように高松琴平電鉄へ譲渡された[48]

76(2代目)→114→1003→琴電60形74
64→107→琴電920形920

実際には、1003については西代車庫火災の復旧に際して同時に復旧された77(2代目)→115→1004との車体の振り替えが実施されており、1004の車体が1003名義で高松琴平電鉄へ譲渡されている[48]

保存・転用

112(旧73)・117(旧:初代76形77→102)の車体が西代車庫で物置として使用されたが、これも後に撤去されている[83]

山陽電気鉄道の歴史の上では、設立から戦中戦後にかけての最も困難な時期に主力車として重用された形式であるが、200形とは異なり保存車はなく、高松琴平電鉄への譲渡車体も解体処分されたため、全車とも現存しない。

車番の変遷

いずれも新製時→1回目の改番(初代76形→初代100形のみ)→1945年の被災状況(川崎航空機明石工場爆撃に伴う破壊(6月9日)・明石市市街地への焼夷弾空襲に伴う火災(7月7日)の被災車のみ)→1949年の一斉改番の順である。

51形→2代目100形・1000形

出典:[61]

51→100
52→1945年6月9日全壊、同年7月7日全焼→1948年廃車
53→101
54→1945年7月7日全焼→1000
55→102
56→103
57→1945年6月9日小破、同年7月7日全焼→1948年廃車
58→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→1001
59→104
60→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→1002
61→105
62→1945年6月9日全壊、同年7月7日全焼→1003
63→106
64→107
65→108
66→1945年6月9日大破、同年7月7日全焼→1004
67→109
68→110
69→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→1948年廃車
70→1945年6月9日全壊、同年7月7日全焼→1948年廃車
71→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→1005
72→111
73→112
74→1945年6月9日大破、同年7月7日全焼→1006
75→113

初代76形→初代100形→2代目100形・1000形

出典:[48]

76→106→1945年7月7日全焼→1007
77→107→117
78→108→118
79→109→119
80→110→1945年6月9日小破、同年7月7日全焼→1008
81→101→1945年6月9日大破→1009
82→102→120
83→103→121
84→104→1945年6月9日小破→122
85→105→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→123

2代目76形→2代目100形

出典:[48]

76→114
77→115
78→1945年6月9日全壊、同年7月7日全焼→1948年廃車
79→116
80→1945年6月9日中破、同年7月7日全焼→1948年廃車
81→1945年6月9日小破、同年7月7日全焼→1948年廃車

脚注

参考資料

関連項目

外部リンク

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