小野俊之
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| 基本情報 | |||||||||||||||
| 愛称 | 豊後の虎 | ||||||||||||||
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| 生年月日 | 1976年4月21日(49歳) | ||||||||||||||
| 出身地 | 大分県別府市 | ||||||||||||||
| 身長 | 175cm | ||||||||||||||
| 体重 | 85kg | ||||||||||||||
| 著名な家族 | 財前真由美(妻)[1] | ||||||||||||||
| 師匠 | 中西龍太郎(56期) | ||||||||||||||
| 弟子 | 甲斐俊祐(121期) | ||||||||||||||
| 選手情報 | |||||||||||||||
| 登録番号 | 013148 | ||||||||||||||
| 所属 | 日本競輪選手会大分支部 | ||||||||||||||
| ホーム | 別府競輪場 | ||||||||||||||
| 期別 | 77期 | ||||||||||||||
| 主な同期 |
村本大輔(静岡=引退) 山内卓也(愛知) 高城信雄(兵庫=引退) 小倉竜二(徳島) | ||||||||||||||
| 脚質 | 追込 | ||||||||||||||
| 登録地 | |||||||||||||||
| 1996 - 2026 | 大分 | ||||||||||||||
| 業績 | |||||||||||||||
| 賞金王 | 2004 | ||||||||||||||
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選手情報 KEIRIN.JP | |||||||||||||||
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| 自転車競技情報 | |||||||||||||||
| 分野 | トラックレース | ||||||||||||||
| アマチュア経歴 | |||||||||||||||
| 1992 - 1995 | 大分県立日出暘谷高等学校 | ||||||||||||||
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| ■最終更新日:2026年4月10日 ■テンプレートを表示 | |||||||||||||||
小野 俊之(おの としゆき、1976年4月21日 - )は、元競輪選手。現在は競輪評論家。現役時代は日本競輪選手会大分支部所属、ホームバンクは別府競輪場。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第77期生。師匠は中西龍太郎(56期)、弟子は甲斐俊祐(121期)。
大分県立日出暘谷高等学校在学中から自転車競技を行っており、3年生のときに出場した1994年のジュニア世界選手権自転車競技大会(エクアドル・キト)のスプリントで銅メダルを獲得。同年、アジア競技大会(広島)のスプリントでも銅メダル。また同年には高校生ながらも、世界自転車選手権(イタリア・シチリア島)の日本代表メンバーにも選出された。
これら高校時代の実績から、競輪学校には技能試験免除で第77期生として入学。小野自身との同期には徳島の小倉竜二や愛知の山内卓也、静岡の村本大輔らがいる。在校成績は4位[3]。
初出走は1996年4月18日の別府競輪場で、デビュー戦は2着だったが、翌日に初勝利を挙げ、更に翌日の決勝戦でも1着となり、デビュー場所で初優勝を果たす[4]。その後、同年のルーキーチャンピオンレース(立川競輪場)でも優勝を果たすなど、順調にS級へ駆け上がった。
2002年2月の第1回GII西日本王座戦(高松競輪場)決勝では、逃げる小嶋敬二の番手を1センター付近で小嶋マークの佐久間重光(後の日本競輪選手会理事長)から奪い取り、直線で小嶋を差して優勝。見事初代王者の座に就く。この年最後のGIだった11月の全日本選抜2着で得たGPP(2002年のみ適用されたグランプリポイント)により、KEIRINグランプリ02でKEIRINグランプリ初出場を果たす。
3年連続グランプリ出場となった2004年のKEIRINグランプリ(立川競輪場)では、逃げる齋藤登志信 - 岡部芳幸の3番手を神山雄一郎と取り合い、1センターで神山を制して3番手を奪い、直線に入って岡部後位から鋭く追い込み優勝(歴代13人目)。グランプリ初となる1億円の賞金を獲得し、この年の賞金王に輝いた。
この後一時低迷を見せたが、2011年10月に松阪競輪場で開催された共同通信社杯競輪秋本番の決勝では松岡貴久の後位から直線抜けだし9年振りのGII優勝を果たした。
2017年前期は、1997年7月以来のA級となった[6][7][8]。同年後期からS級に復帰。
40歳を過ぎてからは怪我との戦いにもなり[3][9]、2020年下期から再びA級に陥落。さらに2024年下期と2025年下期は最下層であるA級3班(チャレンジ)に陥落、グランプリ優勝経験のある選手がチャレンジに出走するのは初のケースとなった[4]。
2025年11月12日からの奈良FIIで初日チャレンジ予選7着(途中欠場)となったことで限界を感じ、引退を決意。奈良FII後にまず家族に引退の意向を伝え、2026年4月でちょうどデビュー30年となること、年齢も50歳を迎えること、そして3月24日 - 26日の別府FI(ナイター)「ラブリン杯」が地元開催でもあることから同開催をラストレースと事前発表[9][10][11]。3月26日の第2レース(A一般)[12]で3着としたあとバンクで引退セレモニーが行われた[3][13]。この開催には同期77期から8人[14](松尾淳はラストレースで対戦)、GP04メンバーの現役選手から(伏見以外の)齋藤・岡部・佐藤[15]も参戦した[12][16]。
2026年4月7日、選手登録消除。現役時代の通算成績は、2408戦406勝、優勝60回(うちグランプリ1回)。生涯獲得賞金は10億7388万9655円。
主な獲得タイトルと記録
- 2004年 - KEIRINグランプリ04(立川競輪場)
- 年間賞金王1回 - 2004年
エピソード
- GIレースより先にKEIRINグランプリ優勝を果たしたのは、小野以外に山田裕仁(1997年)、有坂直樹(2006年)、和田健太郎(2020年)の例があるが、山田と有坂はグランプリ優勝翌年にGIレース(山田は全日本選抜競輪、有坂は日本選手権競輪)を制している。小野以外に、グランプリ優勝経験がありながらGIレースでの優勝経験がないのは、和田健太郎(GI・GIIとも優勝経験なし)のみ(2026年4月時点)。
- 2004年のグランプリ優勝時の表彰式では、予め用意していた別府八湯の文字が入ったハッピを着て、「これからも別府をよろしくお願いいたします!」とPRしていた。
- TBS系列で放送されていた、世界バリバリ★バリューに2004年、2007年と二度出演。2004年出演時にはスタジオにも顔を出した。その番組内で、「(カネは)いくらでも使っていいよ」と夫人に言っていたことが紹介された。夫人はテレビ大分の元アナウンサーであるが、馴れ初めはたまたま彼女が出演した番組を見て小野が一目ぼれし、その後局に問い合わせるなどして一方的にアタックをかけ、見事恋を実らせたという。
- 全盛期には、地区は異なるが村上義弘(京都)の番手[3][17][18][19][20]や(村上と絆が強い松本整や内林久徳を挟み)3番手[21][22]を回ることに拘った頃があり、それが影響したかどうかはわからないが、一時吉岡稔真との不仲が囁かれたことがあった。
- 2005年から翌年に短期間更新していた公式サイトでは、自身のテーマを「無道心」と表明していた[23]。
- 2012年8月15日放送の『マツコ&有吉の怒り新党』(テレビ朝日)内のコーナー「新・3大競輪・小野俊之のすごい追い込み」で小野が取り上げられたが、いずれも頭突きのシーン中心のレースであった(そのうちの1レースは進路妨害で失格になったものもあった)。取り上げられたのは以下のレースである。