岡本伊三美

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1931-02-26) 1931年2月26日
没年月日 (2026-04-15) 2026年4月15日(95歳没)
岡本 伊三美
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市
生年月日 (1931-02-26) 1931年2月26日
没年月日 (2026-04-15) 2026年4月15日(95歳没)
身長
体重
173 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手外野手
プロ入り 1949年
初出場 1950年
最終出場 1963年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
派遣歴
監督・コーチ歴

岡本 伊三美(おかもと いさみ、1931年2月26日[1] - 2026年4月15日[2])は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手[3]内野手外野手)・コーチ監督解説者

次女に元プロテニスプレイヤーの岡本久美子がいる。

中学まではバスケットボールの選手だったが、京都市立第一工業学校[4][注 1]時代に野球へ転向。野球部の同期に元阪神桧山進次郎の実父がおり、当時岡本が遊撃手で桧山の父がエース投手であった。

高校卒業後の1949年南海ホークスへテスト生として入団[1]。高校時代のチームメイトに種田訓久(後に南海で共にプレー)がいる。

1951年はシーズン終盤の9試合に二塁手として先発出場、また南海土建に出向という形で社会人野球でもプレーした。

選手兼任監督山本一人(以下、鶴岡一人)に見出され[4][5]、鶴岡の後継と目された[3][6]1952年7月からは二塁手の定位置を獲得。打率.299(リーグ9位)の好成績を記録し、初のベストナインに選出された。

1953年には中西太堀井数男との接戦を制し、打率.318で首位打者を獲得[5][7]、19本塁打を放ちチームのリーグ3連覇に貢献、同年のリーグMVPにも輝いた。

1954年には森下正夫に二塁手を任せ、開幕から右翼手に回る。

1955年は二塁手に戻り、二番打者としてチャンスメーカーの役割を果たした。蔭山和夫飯田徳治木塚忠助と共に100万ドルの内野陣と呼ばれ[1]、南海の黄金時代を担った。

チャンスに強く、翌日の新聞の紙面を飾ることが多かったことから、「見出しの岡本」、「見出しのオカ」などの異名があった[8]

1959年までレギュラーを守る。

1960年には半田春夫に定位置を譲る試合が多くなる。

1961年は故障で欠場。

1963年限りで引退した。

巨人との5回の日本シリーズに出場し、1959年に初めてチーム日本一を果たす。1951年の日本シリーズは代走のみの起用に終わり、1952年の日本シリーズは21打数5安打、1953年の日本シリーズは27打数6安打と精彩を欠いた。1955年の日本シリーズは第1戦で3安打と気を吐くが第2戦で死球を受けてから不振に陥り、その後はわずか2安打に終わった。1959年の日本シリーズ第1戦では4打数4安打3打点を記録[1]し、別所毅彦から2打席連続で本塁打を放つ[9]など活躍、同シリーズの技能賞を獲得した。

引退後は南海(1964年1968年 - 1969年一軍コーチ, 1965年二軍コーチ, 1970年 - 1972年二軍監督)、サンケイ1966年 - 1967年一軍打撃コーチ)、阪神1973年一軍コーチ, 1974年ヘッドコーチ)[10]近鉄1982年 - 1983年一軍打撃コーチ, 1984年 - 1987年監督, 1996年 - 1998年常務取締役編成担当, 1999年 - 2001年専務取締役球団代表)で監督・コーチ・フロントを歴任した。阪神コーチ退任後はフジテレビ関西テレビ野球解説者(1975年 - 1981年)、近鉄監督退任後は朝日放送グループ・サンテレビ野球解説者(1988年 - 1995年)を務めた。

鶴岡に請われて2001年からボーイズリーグ(日本少年野球連盟)顧問に就任。2013年から名誉顧問を務めた[11]

晩年は全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ)の常務理事を務めた。

2026年4月15日、肺炎のため大阪市内の病院にて死去。訃報は20日に公表された[12]95歳没

エピソード

1966年から2年間務めたサンケイのコーチを中原宏とともに退任したのは、南海での同僚でもあった飯田徳治監督の退任に加え、次期監督の別所毅彦が自由にやりやすい様にとの球団フロントの配慮によるものだったが、当時の水野成夫オーナーは、岡本と中原の能力を高く評価し、退任させることを惜しんだため、岡本にフジテレビの野球解説者のポストを用意した[13]。ただこの時は直後に古巣・南海にコーチとして復帰し、その後阪神でもコーチを務めたため、同局の解説者への就任は1975年に持ち越された。

激情家の強面で、カーネル・サンダースに似た雰囲気から選手の間では「ケンタッキー」と呼ばれていた。特に当時西武監督の広岡達朗をライバル視し、汚い言葉で乱闘をけしかけた。テニスプレイヤーだった次女の久美子が球場に来ると「お前ら、アホがうつるから娘に近寄るな!」とデレデレしていた[14]

1988年10月19日川崎球場で行われていたロッテ近鉄戦のダブルヘッダーの試合をプロ野球中継(朝日放送)の第一試合で解説をしていたが、試合中にオリエント・リースへの阪急ブレーブス球団売却の速報が流れたことを受けて「娘がお世話になっている会社です」とコメントをしていた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1950 南海 1314142200020110--0--050.143.143.143.286
1951 75797410155012311722--3--094.203.234.311.545
1952 1043353044491115111455733129--21--1357.299.347.477.824
1953 116501450711432601922677301612--34--5458.318.372.502.874
1954 13153046963118201191976324912737--27210.252.309.420.729
1955 13658552192132302182206537517143007110.253.310.422.733
1956 124498428579919291493618101535011497.231.313.348.661
1957 11747141760114254192045698714025487.273.344.489.833
1958 1194724174710318210155611139342114511.247.317.372.689
1959 1204263804499213101565154823322405.261.323.411.733
1960 962492081835804551032813200299.168.279.264.544
1962 8423320919541003732142321801344.258.320.349.669
1963 5474709131022050010300142.186.219.286.505
通算:13年 1289446739615361018194191251625513182741032035661849684.257.321.410.731
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度チーム順位試合勝利敗戦引分勝率ゲーム差チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1984年昭和59年近鉄 4位130586111.48716.5174.2574.3653歳
1985年昭和60年3位13063607.51215.5212.2725.1054歳
1986年昭和61年2位130665212.5592.5183.2714.3455歳
1987年昭和62年6位13052699.43021.5135.2704.2256歳
通算:4年 52023924239.497Aクラス2回、Bクラス2回
※1984年から1996年までは130試合制

タイトル

表彰

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1959年7月5日 ※史上49人目
その他の記録

背番号

  • 20(1949年) ※当時の南海は二軍番号制を敷いていた[15]
  • 44(1950年 - 同年途中)
  • 24(1950年途中 - 1965年)
  • 30(1966年 - 1967年)
  • 60(1968年 - 1972年)
  • 74(1973年 - 1974年)
  • 72(1982年 - 1987年)

関連情報

出演番組

著書

  • いま全力―野球人生40年から(浪速社 1990/12)
  • 「岡本、少しは野球 面白ぅなってきたか」 ―名将・鶴岡一人に学んだこと(SIC 2011/9/22)

脚注

関連項目

外部リンク

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