岸田文武
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| 岸田 文武 きしだ ふみたけ | |
|---|---|
| 生年月日 | 1926年8月19日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1992年8月4日(65歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | 東京大学法学部卒業 |
| 前職 |
国家公務員(通商産業省) 中小企業庁長官 |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 称号 |
正四位 勲二等旭日重光章 法学士(東京大学・1948年) |
| 子女 |
長男:岸田文雄 次男:岸田武雄 長女:純子 次女:典子 |
| 親族 |
祖父:岸田幾太郎 父:岸田正記 弟:岸田俊輔 妹:玲子(宮澤弘の妻) 甥:宮澤洋一 孫:岸田翔太郎 |
| 選挙区 | 旧広島1区 |
| 当選回数 | 5回 |
| 在任期間 | 1979年 - 1992年 |
岸田 文武(きしだ ふみたけ、1926年〈大正15年〉8月19日 - 1992年〈平成4年〉8月4日)は、日本の通産官僚(中小企業庁長官)、政治家。元自由民主党所属の衆議院議員(5期)。位階は正四位勲二等、勲章は旭日重光章。
父は元自由党衆議院議員の岸田正記、弟は大蔵省証券局長・広島銀行会長・相談役を務めた岸田俊輔。妻は元日東製粉社長井口良二の次女。長男は衆議院議員で第27代自民党総裁、第100・101代内閣総理大臣の岸田文雄。派閥は宏池会に所属した。
出生から学生時代まで
広島県広島市南区段原町出身[1]。1945年、旧制東京高等学校(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)卒業後[2]、東京帝国大学へ進学[2]。しかし、戦争末期のころであり、入学早々から勉強どころではなく、連日の勤労動員に続いて、終戦間近の同年7月には、学徒動員で旭川の師団に入隊した[2]。そして、その1か月後には、郷里広島に原爆が投下され、広島市の自宅はその被害に遭い、また、多くの知人を亡くした[2]。在学中に高等文官試験に合格[2]。1948年東京大学法学部政治学科卒業[1]。
通産官僚として
1949年商工省(現・経済産業省)入省。同年入省者には、矢野俊比古(通産事務次官、のちに参議院議員)、天谷直弘(通産審議官)、生田豊朗(日本エネルギー経済研究所理事長)、金森久雄(日本経済研究センター理事長)、熊谷善二(特許庁長官)などがいる[1]。繊維局配属[3]。通産省大臣官房会計課長、資源エネルギー庁公益事業部長なとを経て、1974年貿易局長、1976年中小企業庁長官を歴任して1978年退官[1]。
政治家として
1979年の第35回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選[1]、以降当選5回[1]。その間、地方行政委員会、農林水産委員会、科学技術委員会、商工委員会、文教委員会、物価問題等に関する特別委員会等の委員あるいは理事として、「信頼される政治」をモットーに広い範囲で活躍[2]。1990年3月には内閣委員長に就任[2]。政府にあっては、第2次中曽根内閣においては総務政務次官、第3次中曽根内閣では文部政務次官として、大臣を補佐した[2]。この間、特に教育改革の推進に努め、1986年12月、ジュネーブで開催された第40回国際教育会議では、日本の首席代表として、各国代表の前で演説を行い、日本の教育改革への取り組みを紹介するとともに、教育の国際協力の重要性を強調した[2]。
自由民主党にあっては、都市局長、資源・エネルギー対策調査会副会長、中小企業調査会副会長、調査局次長、行財政調査会副会長などを歴任し、1988年12月からは党経理局長として、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一の4代の総裁のもとで、幹事長を補佐した[2]。
5期目任期途中の1992年8月4日、東京都内の病院で死去。65歳没。同月7日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付をもって正四位勲二等に叙され、旭日重光章を追贈された[4][5]。追悼演説は同年11月10日の衆議院本会議で森井忠良により行われた。
地盤は長男の文雄が継承して、文雄は1993年の第40回衆議院議員総選挙で初当選以降、連続10期当選を経て第100・101代内閣総理大臣に就任した。
人物
親族
著書
- 『エネルギーと技術の旅』(千代田永田書房 1982年)[2]