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谷津義男

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生年月日 (1934-07-23) 1934年7月23日
没年月日 (2021-06-03) 2021年6月3日(86歳没)
死没地 日本の旗 日本 群馬県館林市
(館林厚生病院)
谷津 義男
やつ よしお
内閣広報室より公表された肖像
(1999年 撮影)
生年月日 (1934-07-23) 1934年7月23日
出生地 日本の旗 日本 群馬県館林市
没年月日 (2021-06-03) 2021年6月3日(86歳没)
死没地 日本の旗 日本 群馬県館林市
(館林厚生病院)
出身校 法政大学法学部政治学科卒業
前職 議員秘書、埼玉ダイハツ販売勤務
所属政党 自由民主党(三塚派→伊吹派)
称号 従三位
旭日大綬章
配偶者 谷津美子
公式サイト 谷津義男ホームページ(2009年9月2日時点のアーカイブ)
内閣 第2次森改造内閣
(省庁再編前・再編後)
在任期間 2000年12月5日 - 2001年4月26日
選挙区 (旧群馬2区→)
群馬3区
当選回数 7回
在任期間 1986年7月8日 - 1990年1月24日
1992年3月30日 - 2009年7月21日
群馬県の旗 群馬県議会議員
当選回数 3回
在任期間 1975年4月 - 1986年6月
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谷津 義男(やつ よしお、1934年〈昭和9年〉7月23日[1][2][3] - 2021年〈令和3年〉6月3日[4][3])は、日本の政治家。位階は従三位。旭日大綬章受章[5]。

農林水産大臣(第31代)、衆議院内閣委員長、衆議院議員(7期)、群馬県議会議員(3期)等を歴任。

群馬県邑楽郡多々良村(現・館林市)に、父鶴吉・母イソの長男として生まれる[2][注釈 1][注釈 2]。1953年に群馬県立館林高等学校を卒業し[2]、1957年法政大学法学部政治学科を卒業[2][1]。親戚筋にあたる衆議院議員・福井盛太の秘書となった[1][4]。埼玉ダイハツ販売勤務を経て1969年から衆議院議員・坂村吉正の秘書となる[1]。1975年に群馬県議会議員に初当選し、連続3期務めた[2][1]。

1986年、引退する長谷川四郎の地盤を引き継ぎ[1]、第38回衆議院議員総選挙自由民主党公認で旧群馬2区から立候補し初当選[4]。1990年の第39回衆議院議員総選挙では落選したが、1992年の補欠選挙で当選[4]。小選挙区比例代表並立制導入に伴い、1996年の第41回衆議院議員総選挙以降は群馬3区から立候補。

1997年、衆議院内閣委員長に就任。自民党では安倍派→三塚派に所属していたが、1998年に三塚派を離脱し、翌年の志帥会結成に参加[要出典]。1999年の小渕内閣で農水統括政務次官に就任[1]。2000年12月には第2次森改造内閣で農林水産大臣に任命され、初入閣している。農林水産大臣として中国産シイタケ輸入問題や諫早湾干拓事業問題に取り組んだ[4]。

2005年の郵政国会では、志帥会会長の亀井や平沼らが郵政民営化法案の衆議院本会議における採決で反対票を投じ造反したのに対し、亀井から採決前に説得を受けるも翻意せず、賛成票を投じる(亀井、平沼らは自民党を離党)[要出典]。2006年、選挙の実務全般を幹事長の下で取り仕切る総務局長を、役員会の正式なメンバーに昇格させた初代選挙対策総局長に就任し、翌2007年の第21回参議院議員通常選挙で実務にあたるが、自民党は大敗。同年8月、選挙対策総局長を辞任した。

2009年の第45回衆議院議員総選挙では、公明党の推薦も受けて[6]群馬3区から立候補したが、民主党の柿沼正明に敗れ、落選した[7]。その後、政界引退の意向を表明した[8]。

2010年12月、館林市名誉市民に推挙[4][3]。

2021年6月3日5時52分、肝臓がんのため、群馬県館林市の公立館林厚生病院で死去[9][10][11]。86歳没。死没日をもって従三位に叙される[12]。

政策

著作

書籍
  • 『自然再生推進法と自然再生事業』(谷津義男, 田端正広 編著, ぎょうせい, 2004年) ISBN 4-324-07353-8
  • 『生物多様性基本法』(谷津義男, 北川知克, 盛山正仁, 末松義規, 田島一成ほか共著, ぎょうせい, 2008年)ISBN 978-4-324-08585-1
論壇雑誌等への寄稿(一部)

ほか。Cinii Researchや国立国会図書館サーチも参照のこと。

エピソード

所属していた団体・議員連盟

脚注

外部リンク

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