後藤忠政
日本のヤクザ (1942-2026)
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来歴
生い立ち
1942年(昭和17年)、東京市荏原区(現在の品川区)に4人兄弟の末っ子として出生[5]。祖父は富士川発電や伊豆箱根鉄道を興した実業家の後藤幸太郎[6]であった。幼少期に母を踏切事故で失っており、戦争の激化により2歳で父の実家がある静岡県富士宮市に疎開して以降、同地で育った[5]。当時の後藤家は没落しており、小学生時代の忠正は納豆売りをして学習用ノートを買うなど、貧しい生活を強いられていた。幼少期には鉛筆1本買う余裕がないほどの極貧生活であったという[7]。
ヤクザとしての活動
地元の富士宮を拠点に愚連隊として活動後、17歳で正式にヤクザとなる。20歳で松葉会系組織に移籍し、トラブルを抱えていた稲川会系組員を日本刀で襲撃。殺人未遂容疑で起訴され、2年10ヶ月の月日を甲府刑務所で過ごす。出所時の1965年(昭和40年)は、警察当局の第一次頂上作戦による影響で、全国的に暴力団組織が壊滅・弱体化していた時期であるが、後藤はその情勢下で勢力を保ち続けた山口組系川内組に移籍する。
1969年(昭和44年)、富士宮市で川内組内に後藤組を設立する。上部団体の川内組は、山口組の二次団体・菅谷組の傘下であり組長の川内弘は菅谷組舎弟を務めていた。1977年(昭和52年)に川内が殺害され川内組が実質的に壊滅すると、後藤は浜松市を拠点とする別の山口組二次団体・伊堂組(組長・伊堂敏雄)に舎弟として移籍した。1984年(昭和59年)7月、竹中正久を組長とする四代目山口組が発足すると伊堂は引退し後藤が山口組の直参へ昇格、後藤組も内部昇格の形で山口組の二次団体となった。
後藤は武闘派として、同年に勃発した一和会との山一抗争で積極的に活動したほか渡辺芳則を組長とする五代目山口組の東京進出に際しては、その先駆けとなって勢力の拡大に寄与した。1992年(平成4年)には後藤組組員5人が、暴力団を描いた映画『ミンボーの女』の監督伊丹十三を襲撃した。
豊富な資金力や組織力を背景に、2002年(平成14年)7月には五代目山口組若頭補佐に昇格。山口組執行部の一角となった。その後、六代目山口組が発足した2005年(平成17年)7月に舎弟に直った。
六代目山口組除籍
2008年(平成20年)10月、後藤の9月の誕生日を祝って開かれたゴルフコンペに細川たかし、小林旭、角川博、松原のぶえ、中条きよし、須之内美帆子、益子梨恵らが参加していたことが報じられた[8]。 これを受けNHKが細川、小林、角川、松原、中条の5人(残りの2人はNHK出演はなかった)の番組への出演を数ヶ月間見合わせた。また、山口組執行部も事態を重く捉え、病気を理由に本部の定例会を欠席しながら祝宴を開いたとして後藤を除籍した[9]。これを機にヤクザを引退して、後藤組を解散し[10]、地盤を後藤組良知組と後藤組藤友会が引き継いで六代目山口組直参に昇格した[11][12]。
引退後
2009年(平成21年)4月8日、神奈川県伊勢原市の天台宗の寺院・無常山浄発願寺で得度、法名・忠叡を名乗る[13]。
かねてからの念願だった映画作りでは、地元で起こった事件だったために気にかけていた袴田事件をテーマとした2010年公開の映画『BOX 袴田事件 命とは』に私費3億円を投じ、救援活動に取り組んだ[13][14]。
同年に自らの半生を語り下ろした自叙伝『憚りながら』(宝島社)を出版、後藤組と創価学会の関係について明らかにしたことなどが話題を呼び、ベストセラーとなった[15][16]。本書の印税は、2010年10月20日に「アンコール障害者協会」(Angkor Association for the Disabled=AAD)ならびにミャンマーのチャイカロット・パリヤティセンター&モゴック・ビパサーナ僧院に全額寄付された。2011年には新章「東日本大震災と日本人」を加えて文庫化。この文庫版の印税でボランティア組織を設立し、福島第一原子力発電所事故で陸の孤島と化した地域へ支援物質を運搬した[17]。この支援活動には村井秀夫刺殺事件の実行犯だった徐裕行が副代表として参加している[18]。
2011年(平成23年)ごろよりカンボジアに移住してプノンペンの高級マンションに居住[19]。カンボジアでは養鶏場経営などの実業を手掛けるとともに学校建設などボランティア活動にも乗り出した[20]。2012年末にはカンボジア国籍を取得し、伯爵に相当する『オンニャー』の称号を授与されオンニャー忠叡を名乗る。カンボジア政府高官に人脈を築いて、国会議員を目指すことも考えているという[21][22]。
2016年(平成28年)3月、日本に帰国した。目的は検査入院であると見られ、関西国際空港から入国して東海道新幹線で東京へ向かい、渋谷区内の病院に入院したと報じられている[23][24]。六代目山口組から離脱した勢力が神戸山口組を結成し六代目山口組系と神戸山口組系の勢力争いが頻発していた最中であったため、後藤への接触を試みるなどの動きが見られた。当時カンボジアに居を移していた後藤忠政が日本に帰ってきていた際、たまたま取材先で後藤と顔を合わせた溝口敦が、後藤忠政を神戸山口組に取り込んだらいいという声が起こっている話をついでのように持ち出してみると、「そうでないんだ」と面白くなさそうな顔をして横を向いたという[25]。
2026年(令和8年)2月8日朝、東京都内の自宅で冷たくなっているのを家人が気付き、病院に搬送されたが死亡を確認された[11]。誤嚥性肺炎だった[11]。83歳没[26][27]。後藤忠政の遺体が移された静岡県富士宮市内の斎場で2月16日に通夜、17日に葬儀・告別式が[11]、家族葬として営まれた[28]。後藤組の地盤を引き継いで六代目直参となった良知組(富士宮市、竹嶋利王組長)と藤友会(富士市、塚本修正会長)が葬儀を仕切り、六代目山口組東海ブロック勢、中京ブロック勢が参列[12]。会場内に後藤忠政と夫人が土佐犬とともに描かれた高さが2m以上ある油絵が飾られ、祭壇は富士山を模した菊の花で飾られていた[12][29]。2月15日に髙山清司相談役が、2月16日の通夜に司忍六代目の名代として竹内照明若頭と野内正博組長が弔問に訪れた[12]。本通夜、告別式を併せて約800人が弔問に訪れたという[20]。
家族
事件
アメリカでの肝臓移植
2001年(平成13年)4月ごろ、肝臓の悪化により適合する肝臓を移植できるアメリカへ入国するため、連邦捜査局との間で山口組内部情報(山口組がアメリカで利用する金融機関や弘道会の幹部リストなど)を提供するなどの取引を行った[4][34]。同年7月にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院で手術を受け、その際に同院へ10万ドルを寄付した。病院側は謝意を表明したプレートを院内に掲示したが、問題となり直後に撤去された。
2003年(平成15年)11月、アメリカの捜査当局は後藤の情報を元に山口組系五菱会の最高幹部だった梶山進[注 1]の資金200万ドル(約2億円)を発見して警察庁に連絡。この資金は全額没収された[35]。その後スイスの捜査当局とも連携しさらに50億円を没収した。山口組の損失は約54億円に上ったが、後藤組の損失は0であった。
真珠宮ビル事件
2006年5月8日、東京都渋谷区のビル所有権を菱和ライフクリエイト(現・クレアスライフ)の社長らと共謀し不正変更した電磁的公正証書原本不実記録の容疑で、組関係者とともに警視庁に逮捕された[36]。翌年6月14日、病気を理由に弁護人が勾留の執行停止を申し立て、保釈金7,000万円を支払い保釈されたが、2012年2月13日に懲役2年執行猶予4年の有罪判決が確定した[37]。
警視庁からの捜査情報漏出
2007年6月12日までに警視庁北沢署巡査長のパソコンから情報が流出し、警察がグラビアアイドル出身の女優、レースクイーン出身のタレント、声優で歌手の女性の3人を、捜査・監視の対象である後藤の愛人として把握していることが発覚した[38][39]。
金融制裁指定
著書
- 憚りながら(宝島社、2010年5月15日)ISBN 9784796675475
- 憚りながら(宝島社文庫、2011年5月12日)ISBN 9784796681346 ※新章「東日本大震災と日本人」を追加。