後藤組
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除籍・解散
組長の後藤忠政は、三代目山口組時代のボンノこと菅谷政雄が興した菅谷組の幹部で「北陸の帝王」と呼ばれた川内弘率いる川内組の幹部だった。 菅谷組の内紛から川内が射殺され、伊堂組舎弟を経て四代目山口組の直参(二次団体組長)に昇格。
1975年、抗争が拡大する中で拳銃乱射事件を起こす。後藤組長ら10人が逮捕され、幹部のほとんどが服役する状態となった。その最中の1976年には、富士宮市市長選挙に介入。現職市長を中傷する怪文書を握りつぶす代償として1000万円を要求していたことが明らかになる[2]。
1985年5月、「山一抗争」(1984年-1989年)の時、一和会会長・山本広宅の前の道路はは警察当局がバリケード封鎖し、警察官が常時、警戒にあたっていたところに、後藤組組員ら3人は車体前部を改造した8トンダンプカーで現れ、実行犯たちはバリケード状の車止めを破壊し、16人の警察官と銃撃戦で重傷を負いながら山本広宅にダンプ特攻した[3]。ダンプカーにはダイナマイトを積んでおり、山本広宅を爆破しようとしたと思われる[3]。実行犯3人は後藤組組員2人、美尾組系組員1人であった[3]。
五代目山口組の東京進出時にはいち早く行動を起こし、確固たる地盤を築いた。1990年に起きた「八王子抗争」の後、八王子に傘下の正東会が地位を確立した。その後、世間を騒がせた武富士問題の結果、日本航空の個人筆頭株主となった。後藤組傘下企業舎弟及びフロント企業が東京都内に多数進出。
後藤組の名は、1992年5月公開の映画「ミンボーの女」(東宝)をめぐる伊丹十三監督襲撃事件で、武闘派暴力団として報道された。伊丹十三監督襲撃事件とは、「ミンボーの女」で地上げやゆすりをやる暴力団は、市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描いた伊丹監督が、同年5月22日夜に自宅の近くで刃物を持った五人組に襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負った事件である。伊丹監督は「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。警察は現場の車より山口組系後藤組の犯行であることを突き止めた。5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。
2005年に東京都渋谷区の雑居ビルの所有権をめぐってビル管理者とトラブルになり、不動産不正登記事件やビル管理会社顧問刺殺事件が起こり、後藤組長が電磁的公正証書不実記録容疑で、後藤組幹部と後藤組組員が殺人罪で立件されて有罪判決が下されている(真珠宮ビル事件)。同2005年、六代目山口組舎弟に直った[3]。
2008年秋に山口組執行部から除籍処分を受け、組長・後藤忠政は引退し、後藤組は解散した。後藤組傘下の良知組、藤友会が地盤を引き継ぎ、六代目山口組直参となった。
この処分については、六代目山口組執行部による『反執行部勢力の排除』の一環であったとする見方がある[4]。ただ、同時期に、後藤は病気を理由に本部の定例会を欠席しておきながら、芸能人数名を招待しての誕生会を兼ねたゴルフコンペを開いており、これが執行部から問題視されていたのも事実である。
この処分に連座した団体は後藤組のほかに7団体。すなわち、井奥会(神戸)、大門会(熊本市)、六代目奥州会津角定一家(福島市)、二代目一心会(大阪市)、浅川会(大阪府吹田市)、太田興業(大阪市)、二代目浅川一家(福岡県)で、わけても井奥会と大門会が受けたのは最も重い処分にあたる絶縁であった。[5]
この処分の意思決定者は、二代目弘道会(名古屋市)を率いる高山清司であった。このことから、警察庁組織犯罪対策部は、後藤組と弘道会の間での対立抗争の発生の懸念を2008年10月度の愛知県公安委員会に報告するに至っている。[6]