孝昭天皇
日本の伝説上の天皇
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略歴
名
事績
系譜
后妃・皇子女
年譜
宮
陵・霊廟

(奈良県御所市)
陵について『日本書紀』では前述のように「掖上博多山上陵」、『古事記』では「掖上博多山上」の所在とある。一方『先代旧事本紀』では崩御の翌年に葬ったと見え、崩御38年後に葬ったとする『日本書紀』の記録と相違することから、後者を改葬と見る説もある[8]。『延喜式』諸陵寮では「掖上博多山上陵」の名称で大和国葛上郡にあるとし、兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている[8]。しかし後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された[8]。陵近くには孝昭天皇の霊を祀る孝昭天皇神社(孝昭宮)があるが、これは古く丘上にあったものを幕末の修補の際に現在の東側隣接地に移したものとなる[8]。
また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族と共に孝昭天皇の霊が祀られている。
- 孝昭天皇神社(孝昭宮)
播磨国風土記
和銅6年(713年)から霊亀元年(715年)にかけて編纂された『播磨国風土記』には記紀には記載のない孝昭天皇にまつわる複数の逸話が残されている[9]。
飾磨の郡
飾磨
飾磨の由来は大三間津日子命(孝昭天皇)が、この地に屋形を造っていたときに大きい鹿が鳴いていた。その声を聞いた大王が「鹿が鳴いているなぁ」と仰せになったので飾磨という名がついた。
讃容の郡
邑宝の里
弥麻都比古命(孝昭天皇)が、この地で井戸を開いて干し飯を召し上がった際、「私は多くの国を占有した」と仰せになった。そのためこの地は大の邑という。井戸を開かれた場所は、御井の村(現在の佐用町仁位)と名付けた。
久都野
弥麻都比古命(孝昭天皇)が、「この山は、踏めばきっと崩れるだろう」と仰せになった。そのためこの地を久都野という。その後、改めて宇怒といった。その近辺は山で、中央は野であった。
伝承
春日縣の改名
文安3年(1446年)成立『和州五郡神社神名帳大略注解』巻4補闕所収の『十市氏系図』によると、孝昭天皇の御代に春日縣を十市縣と改め事代主の裔である五十坂彦が初代十市縣主に任命され子孫はその職を世襲することになったと伝わっている[10]。
三輪山 中津磐座
大和国式内名神大社大神神社の社伝によると、孝昭天皇の御代に神託があり大己貴命を三輪山の中津磐座に配祀したと伝えられている[11]。
三輪山 高宮神社
大和国式内名神大社大神神社の社伝によると、”孝昭天皇即位元年(BC475年)四月卯刻上前夜半に三輪山絶頂にある古の大杉の上に、日輪如き火の氣を放つ光が山を照らした。その曉神が天降り、天皇に託宣し「我は日本大國主命なり、今この国に遷り来たれり。我が広前を山田の吉川比古命(久延彦命八世孫川邊足尼の子)に崇秘奉りさせよ。」と謂った。この託宣に依り孝昭天皇は勅を発し吉川比古命を高宮の神主と定めた。”と伝えられている[12]。
大和坐大国魂神社
大和国式内名神大社大和神社の社伝によると、祭神の倭大国魂神は大地主大神として孝昭天皇即位元年(BC475年)に顕現し、禁中で天照大御神と共に奉斎されるようになったと伝えられている[13]。
飛鳥坐神社
大和国式内名神大社飛鳥坐神社の社伝『大神分身類社鈔』によると、飛鳥坐神社四座のうち鴨都味歯八重事代主命社は孝昭天皇の御代に創祀されたと伝えられている[14]。
高鴨阿治須岐託彦根命神社
大和国式内名神大社高鴨神社の社伝によると、高鴨阿治須岐託彦根命神社四座のうち阿遅志貴高日子根命社は孝昭天皇の御代に神殿が造営されたと伝えられている。また配祀の三座も孝昭天皇の御代に創祀されたものとしている[15]。
氷川神社
武蔵国一宮名神大社氷川神社の社伝『氷川大宮縁起』『風土記稿』によると、氷川神社は孝昭天皇三年(BC473年)の創建で、出雲国の杵築大社(出雲大社)を遷して氷川神社の神号を賜ると伝えられている。氷川の名前も出雲の大河である斐伊川にちなむとされている[16]。
楡山神社
武蔵国幡羅郡式内社楡山神社は孝昭天皇の御代の御鎮座とされており、御神紋は「八咫烏」であると伝わっている[17][18]。
新宿下落合氷川神社
箱根神社
相模国足柄下郡国幣小社箱根神社の社伝『筥根山縁起并序』(1191 年成立)によると、第5代孝昭天皇の御代、聖占仙人(しょうぜんしょうにん)が、神山に鎮まります山神の威徳を感應し、駒ヶ岳山頂に神仙宮を開き、次いで利行丈人、玄利老人により、神山を天津神籬とし、駒ヶ岳を天津磐境として祭祀したのに始まる、と伝わっている[20]。
伊豆山神社
伊豆国賀茂郡式内社伊豆山神社の社伝によれば孝昭天皇の御代(BC5世紀~BC4世紀)の創建とされ、当初は日金山(現在の十国峠)山頂にあったとされ、仁徳天皇の御代に現在の社域に遷して奉祀し天皇の勅願所として定めたと伝わっている[21]。
富知神社
駿河国式内社富知神社の社伝によると、創建は孝昭天皇2年(BC464年)丁卯6月之旬とされ、古来浅間神社ができるまで富士大神は大山祇神であったと伝えられている[22]。
富知六所浅間神社
駿河国富士郡式内社富知六所浅間神社の社伝によると、創建は第5代孝昭天皇2年6月10日(BC474年)と伝えられ、第10代崇神天皇が四道将軍を派遣の際、当神社は建沼河別命に厚い崇敬を受け勅幣を奉られたと伝えられている[23]。
若栗神社
尾張国式内社葉栗郡若栗神社の社伝によると、孝昭天皇はこの地に滞在したされ、この地の有力者である興津余会公の娘である世襲足媛を妃としたと伝えられている[24]。
阿須賀神社
和歌山県新宮市阿須賀にある阿須賀神社の社伝によると、当社は孝昭天皇53年(BC423年)3月の創祀とされ『古事記』、『日本書紀』に記されている熊野神邑とされている[25]。
石津神社
和泉国大鳥郡式内社石津神社の社伝によると、第五代孝昭天皇7年(BC469年)の創建とされ、事代主神(戎神)が此の地に五色の石を携え降臨したことに由来し、以来ここを石津と名づけられたと伝わっている[26]。
天降神社
福岡県田川郡川崎町川崎にある天降神社の社伝によると、当社は孝昭天皇49年秋(BC427年)の創建と伝わっている[27]。
狭野神社
日向国諸県郡官幣大社別宮狭野神社の社伝によると、当社は第五代孝昭天皇の御代に神武天皇と吾平津媛を祀る社殿を建てたのがはじまりとされている[28]。また当地は神武天皇御降誕の地であり神社背後の「産婆石」(うべし)付近で生誕されたと伝えられている[29]。
東霧島神社
日向国諸県郡式内社東霧島神社の社伝によると、霧島・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ、第五代孝昭天皇の御代に創建されたと伝えられている[30][31]。
考証
実在性
孝昭天皇を含む綏靖天皇(第2代) - 開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』・『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から創作性が強いとされる。
一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある[32](詳細は「欠史八代」を参照)。
治世の長さが不自然であることは春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年をそれぞれ1年と数えていたとする春秋二倍暦説で説明できるとする向きもある。「魏志倭人伝」に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることが根拠として挙げられる。
但し、孝昭・孝安・孝霊の3代に関しては二倍暦ないしは二倍延長と見なして半分に短縮しても在位年数は40年から50年程度と非常に長期間の在位になる上、没年齢も当時の平均寿命を大幅に越えている。
名称
和風諡号である「みまつひこ-かえしね」のうち、「みまつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「ね」は神名の末尾に付く「ね」と同義と見て、孝昭天皇の原像は「かえしね(香殖稲 / 訶恵志泥)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[2]。
