日置神社 (名古屋市)

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所在地 愛知県名古屋市中区一丁目3番21号
位置 北緯35度9分19秒 東経136度53分58秒 / 北緯35.15528度 東経136.89944度 / 35.15528; 136.89944座標: 北緯35度9分19秒 東経136度53分58秒 / 北緯35.15528度 東経136.89944度 / 35.15528; 136.89944
主祭神 天太玉命
日置神社

拝殿
所在地 愛知県名古屋市中区一丁目3番21号
位置 北緯35度9分19秒 東経136度53分58秒 / 北緯35.15528度 東経136.89944度 / 35.15528; 136.89944座標: 北緯35度9分19秒 東経136度53分58秒 / 北緯35.15528度 東経136.89944度 / 35.15528; 136.89944
主祭神 天太玉命
社格 従一位
式内社
郷社
創建 不明(10世紀以前か)
本殿の様式 流造
別名 日置八幡宮
日置天神
八幡宮
八幡
例祭 10月15日
地図
日置神社の位置(愛知県内)
日置神社
日置神社
日置神社の位置(名古屋市内)
日置神社
日置神社
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日置神社(ひおきじんじゃ)は、愛知県名古屋市中区一丁目にある神社。「日置八幡宮」とも呼ばれる。『延喜式神名帳』の尾張国愛智郡「日置神社」に比定されている式内社

歴史

創建は不詳。近世まで八幡宮と呼ばれており、愛知郡日置村の氏神であった。江戸中期、天野信景は当社の所在地が日置村であることから『延喜式神名帳』の「日置神社」に比定し、以降は定説となった。当社を日置神社とすることに異説は全くなく、江戸後期の津田正生も当社が日置神社であるとしている。

平城京から「尾張国愛智郡草部郷日置里」と書かれた木簡が出土しており、奈良時代にはこの地域が「日置里」と呼ばれていたようである。「日置」という名称については不明な点が多いが、を司る日置部に由来するという説がある。神社周辺には大須古墳群旅籠町遺跡など古代遺跡が複数確認されている。神階については『尾張国内神名帳』熱田本は「従一位上 日置天神」、国府宮本は「従三位 日置天神」としている。

中世になって、山城国男山より八幡大神を勧請して合祀したという(京都東山五条北の若宮八幡宮とも)。永禄3年(1560年)5月、織田信長桶狭間の戦いへ出陣する折、早朝に清洲城を出て本社に到り、敦盛を舞って戦勝祈願を行い、軍勢の集結を待ってから熱田神宮へ向かったとされる。織田信長は戦勝後、報賽のため神域に松樹千本を植えた。これより「千本松日置八幡宮」と呼ばれた。

戦前まで、天正20年(1592年)や慶長13年(1608年)などの銘をもつ棟札を所蔵しており、戦国期から江戸期にかけて複数回社殿を再建したようである。天正20年の棟札には「愛知郡日置...日置八幡大菩薩」と書かれている。江戸前期成立の『寛文村々覚書』には「日置村...八幡 熱田禰宜織太夫...前々除」とあり、熱田禰宜の大原織太夫の持分となっていた。近接する七面山妙善寺は、当社の社地を割いて建立されたらしく、借地領として年貢が大原織太夫に支払われていた記録が残っている。

明治維新の際、社名を「日置神社」と改称した。1871年明治4年)に郷社に昇格した。神仏分離の際には社家が資料を持ったままやめたため、資料が散逸している。1896年(明治29年)、千本松の最後の1本が枯れたとされる。1907年(明治40年)12月26日、神饌幣帛料供進神社に指定された。1909年(明治42年)10月、隣接する村社の神明社を合併して配祀した。1945年(昭和20年)3月、名古屋大空襲で戦災を受けた。1958年(昭和33年)、社殿の復興造営が完成した。

境内

  • 社殿
  • 社務所
  • 力石
  • 鳥居

摂末社

  • 稲荷社
  • 大黒恵比須社
  • 橘社
  • 津島社熱田社秋葉社合殿
  • 迦具土社須佐之男社合殿
  • 火具土社
  • 龍神社

祭典行事

脚注

外部リンク

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