旭琉會

沖縄県に本部を置く指定暴力団 From Wikipedia, the free encyclopedia

旭琉會(ぎょくりゅうかい[3])は、沖縄県中頭郡北中城村に本部を置く指定暴力団

設立1970年(昭和45年)12月[1]
設立者仲本善忠
本部〒904-0031
日本の旗 日本沖縄県中頭郡北中城村字島袋1362[2]
首領糸数 真[2]
概要 設立, 設立者 ...
旭琉ぎょくりゅう
旭琉會の代紋
設立1970年(昭和45年)12月[1]
設立者仲本善忠
本部〒904-0031
日本の旗 日本沖縄県中頭郡北中城村字島袋1362[2]
首領糸数 真[2]
活動範囲1県[2]
構成員数
(推定)
約200人[2]
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構成員は2025年末時点で約200人である[2]ただし、あえて登録しない者や警察が把握できていない構成員等がいるため、実際は統計上の数字の数倍に上るとの見方もあることに留意する[4]

2025年(令和7年)2月8日、旭琉會二代目を糸数真が襲名。

1970年(昭和45年)12月に結成された「沖縄連合旭琉会」が、内部抗争を経て1990年(平成2年)に「旭琉会」(翁長良宏会長)と「沖縄旭琉会」(富永清会長)に分裂。その分裂に際しての抗争は無辜の市民を巻き込み、暴力団対策法施行の一因ともなった。それから20年余にわたってそれぞれ対立しながら並立していたものの、2011年(平成23年)、「沖縄旭琉会」が「旭琉会」を吸収合併する形で一本化、「旭琉會」として再発足した。

沖縄県内唯一の指定暴力団で、2012年(平成24年)以後は沖縄県内唯一の組織暴力団となっている。

来歴

起源と黎明

そもそも沖縄における暴力団はいわゆる伝統的な「ヤクザ」ではなく、第二次世界大戦後に出現した土着の無法集団を起源としている[5]。終戦後の混乱期から復興の兆しが現れ始めた1952年頃に不良者らなどが集団化し始めた[5]。それらの代表的なものが那覇市を拠点とした「那覇派」と、のちの沖縄市域を拠点とした「コザ派」(→「山原やんばる派」[6])で、幾度にもわたり対立抗争を繰り返していたこれら2派が、沖縄の本土復帰を目前に控え、日本本土の暴力団の島内進出を阻む意図から、大同団結を図ったうえで1970年(昭和45年)の暮れに「沖縄連合旭琉会」を結成[5]。「第1次沖縄抗争」(1961年-1962年)、「第2次沖縄抗争」(1964年-1966年)、そして「第3次沖縄抗争」(1967年)と、そこに至るまで三次にわたる大規模な抗争を経ていたものの、「山原派」首領・仲本善忠の主導によって正式発足、これが旭琉会の幕開けであった[7]

三代目山口組との抗争

1974年(昭和49年)10月、分派行動を取っていた上原勇吉一派は旭琉会幹部を殺害。1975年(昭和50年)2月、旭琉会は報復に乗り出し、上原一派の組員3人を山中に連れ出し射殺したうえで埋めた。同年10月、沖縄県警察は、逃走中の旭琉会仲本善忠会長を殺人、死体遺棄の容疑で大阪市内で逮捕した[8]

1976年(昭和51年)[9]、「沖縄連合旭琉会」から「沖縄旭琉会」への改称と同時に多和田真山を首領に据える二代目体制が発足[7]。間もなく沖縄進出を巡り対立状態にあった三代目山口組との抗争が激化し、白昼の那覇市内の路上で組員が三代目山口組系暴力団員を拳銃で射殺、さらには組員が三代目山口組系暴力団事務所に手榴弾を投擲したうえ拳銃を乱射するなどといった、暴力的な抗争事件を1978年度だけで22回にわたって引き起こした。その過程においては組員が警戒中の警察官に対してカービン銃を発砲し傷害を負わせるという事件もあった[10]

これに傘下組織の「上原組」が脱退、そして三代目山口組への加入を行ったことから激化に至った抗争で、仲裁者の不在という沖縄特有の事情も手伝い、双方が疲弊し消耗し尽くすまでの“総力戦”に発展[7]。この抗争の終結を模索した会長の多和田二代目は、1981年(昭和56年)、三代目三代目山口組との盃事を敢行し、三代目山口組直系組長(二次団体首領)ら2名を相手に対等の「兄弟分」関係を結ぶに至る。ところがこれが裏目に出てしまい、組織内の反対派から命を狙われる結果となった[7]。翌1982年(昭和57年)、傘下組織構成員の手により多和田二代目は射殺された[9]

1983年(昭和58年)5月、三代目「旭琉会」発足[7]翁長良宏が三代目会長を襲名[11]。この時点で1,000余名の構成員を擁する沖縄県内最大の暴力団であったが、やがて内部で主導権争いが発生[5]

沖縄旭琉会の代紋

分裂、そして指定暴力団へ

三代目旭琉会理事長富永清率いる9組織は離脱したうえで、1990年(平成2年)に新団体「沖縄旭琉会」を発足、そのまま熾烈な抗争に突入した[11]。この年だけで無関係の市民を含む6名の死者と12名の負傷者を発生させ、市民間における反暴力団の機運を高める結果となった[12]。1992年(平成4年)における暴力団対策法の施行はこの抗争を一因としたものであった[13]。同年6月をもって旭琉会・沖縄旭琉会の両者揃って同法に基づく指定暴力団となるに至った[14]。同年のうちに抗争終結が宣言されはしたものの、そのまま2つの「旭琉会」が並立、緊張を伴う“冷戦状態”が以後20年余にわたって継続することとなった[15]

再統合「旭琉會」

やがて2010年(平成22年)に至り、翁長三代目が旭琉会会長の座を退くとともに、三代目体制下で理事長を務めた花城松一が旭琉会の跡目を襲名[9]。この代替わりの儀に際して新会長すなわち花城の後見人となったのは沖縄旭琉会の富永清会長であった[15]。そしてその翌2011年(平成23年)の暮れ頃になってついに両組織の一本化が正式決定[16]。分裂から21年を経ての再統一となった[17]沖縄旭琉会による吸収合併という形での統一で、指定暴力団の合併は1992年の暴力団対策法施行以来全国初のことであった[13]。一本化後の新組織名は“旭琉會”[18]。沖縄旭琉会会長の富永清を首領に、四代目旭琉会会長の花城松一を次点に据え、2011年のうちに「旭琉會」正式発足[19]。同年3月末には暴力団対策法に基づく「四代目旭琉会」の指定が取り消され、同時に「沖縄旭琉会」の指定名が旭琉會へ改称され、沖縄県内唯一の指定暴力団として再始動する運びとなり、現在に至っている[20]

2019年(令和元年)7月12日、富永初代会長が死去[21]。後継者については四十九日の喪が明けてから決定するとされていたが[22]、その後は会長不在の状態が続いた。2020年3月報道時点では花城が会長代行であることが確認されていたが[23]2022年(令和4年)報道によると、二代目照屋一家の永山克博総長が「代表」を務めており[24][25]、永山克博代表を中心に空席となっている会長選出へ向けて組織固めを進めているとされた[24]

旭琉會(構成員約300人)本部事務所は前会長富永清死去に伴い、沖縄市上地から北中城村島袋に移転し、沖縄県公安委員会は、暴力団対策法に基づき、2020年(令和2年)7月31日付の官報で公示[26]

2025年(令和7年)2月8日、糸数真理事長(三代目富永一家総長)を二代目会長とする「代目継承盃之儀式」を行った[27][28][29]。霊代を永山克博代表(二代目照屋一家総長)が務め、取持人を與那哲也代表補佐、奔走人を又吉敏廣代表補佐、媒酌人を満元幸次事務局長が務めた[27]。続いて、親子縁組盃之儀式が行われ糸数二代目から21人が盃を受け、満元幸次事務局長が進行を務めた[30]

2025年(令和7年)2月12日、糸数二代目が六代目山口組司忍組長を訪れ襲名の挨拶を行った[31][32]中部国際空港に到着した糸数二代目を六代目山口組若頭補佐四代目倉本組組長津田力と六代目山口組三代目弘道会若頭野内正博が出迎え、司忍六代目がいるところまで案内した[31]。二代目旭琉會の知念秀視理事長と狩俣重三本部長らが同行した[33]。挨拶を終えて笑顔を見せて帰る車中の糸数二代目を司忍六代目は笑顔で手を振り見送った[31]

2025年(令和7年)2月14日、糸数二代目は稲川会住吉会極東会松葉会双愛会の関東の5団体を訪れ、襲名の挨拶を行った[34][35]。この日の挨拶回りは稲川会が車を手配、ホスト役を務めた[31]。二代目旭琉會の知念透視理事長、猪俣重三本部長、新垣修組織委員長、満元幸次事務局長、上原芳正理事長補佐の5人が同行した[35]

2026年(令和8年)2月16日、那覇警察署沖縄県警組織犯罪対策課の合同捜査本部は、旭琉会二代目沖島一家構成員(45)と旭琉会二代目会長(71)の2人を逮捕した[36]。逮捕容疑は2024年8月27日、共謀の上、女性からお金を脅し取ろうとした疑い[36]。同年3月18日、那覇地方検察庁は、糸数真会長を不起訴処分とした[37]

2026年(令和8年)4月19日、沖縄市諸見里で、近隣住民から「火災ではないか」と、午前4時13分ごろに119番通報が[38]、午前4時15分ごろに110番通報があった[39][40][41][42]。沖縄警察署や沖縄市消防本部によると、約3時間後に鎮火[38]。鉄筋コンクリート造り集合住宅の4階部分が全焼し[40]、延焼はなかったものの、4階の1室から損傷が激しく性別と身元不明の1人の遺体が確認された。沖縄県警関係者によると、火災現場となった4階は旭琉會四代目富永一家事務所兼旭琉會糸数真会長(富永一家三代目)の自宅で[43][44][45]、19日現在、1人で住む糸数真会長と連絡が取れていない[46]。関係者によると、死亡したのは糸数真会長の可能性が高いという[44]。火災を受けて、同日、二代目旭琉会は幹部らを招集し本部事務所(北中城村)で緊急会合を開いたと報じられた[44]。今後の運営方針や対応を検討したとみられる[44]。旭琉会関係者によると「(糸数真会長は)人望厚く、慕われる『沖縄ヤクザの手本』のような人」。糸数真会長の周囲で不穏なトラブルなどは確認していない[44]。火事があった現場の近くに住む70代男性は、「午前4時すぎに外に出たら、建物から火が出ていて焦げ臭いにおいがした。朝になって火元の事務所の関係者と思われる人たちが来て警察官も集まってきたが、トラブルのようなことは起きなかった」[43]。沖縄県警は遺体の身元の確認を急ぐとともに、事件と事故の両面から、詳しい死因や出火原因を調べている[46][47]。警察と消防は19日と20日、2日続けて実況見分を行っており、糸数真会長の息子と、18日の当番で糸数真会長と事務所で2人で過ごした旭琉会関係者男性1人が一緒に立ち会った[48]。その旭琉会関係者男性は18日午後10時ごろ事務所を出たといい、火災発生までの6時間に糸数真会長が何をしていたのか、誰かと接触したのかはわかっていない[48]

2026年(令和8年)4月21日、沖縄県警は、19日未明、沖縄市の暴力団事務所で火災が発生し、性別不明の遺体が発見された事案について、遺体のDNA鑑定など確認を進め[49]、現場に住んでいた「旭琉會」会長の糸数真(71)と断定し、死因は20日に行われた[50]司法解剖により[37]一酸化炭素中毒であると発表した[51]。119番通報および110番通報から、約1時間後に死亡が確認されたという[52]。周囲の防犯カメラの映像などから事務所内部から火が出たとみられ、これまでのところ、外部から第三者が侵入した形跡などは見つかっていない[49]。会長の遺体は寝室から見つかっており、引き続き火災の詳しい原因を調べている[53]。警察は、出火原因については特定できていないものの、周辺の防犯カメラや関係者から話を聞くなどして「事件性はない」とみている[54]

情勢

統一前の「旭琉会」は沖縄県那覇市首里石嶺町(4-301-6)に、対する「沖縄旭琉会」は同市の辻(2-6-19)に本部を置き、ともに沖縄県内を専らの活動地とした[55][56]。「旭琉會」となって以後、2023末時点で沖縄県中頭郡北中城村字島袋1362に本部を置き、勢力範囲は同県内、構成員約210人の勢力数となっている[2]

勢力

統一前からそれぞれ沖縄県を代表する暴力団組織で、その規模は「沖縄旭琉会」が県内最大、「旭琉会」が次点、同県内を拠点とする暴力団組織はこれら2団体のほかには東亜会のごく小規模な系列組織「誼興業」のみとなっていた[57]。その誼興業も2012年をもって解散、これにてちょうど同時期に新発足した「旭琉會」が沖縄県内唯一の組織暴力団となるに至っている[58]

統一前の「旭琉会」と「沖縄旭琉会」の人員勢力のおおよその内訳は、以下の表のように推移していたと報告されている。

さらに見る 旭琉会, 沖縄旭琉会 ...
1993[11]2001[59]2007[60]2010[61]2011[62][57]
旭琉会 430270352210210 or 300
沖縄旭琉会 570410523310300 or 430
2団体合計 1,000680875520510 or 730
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資金源

統一前の「旭琉会」および「沖縄旭琉会」は違法薬物の取り扱いによる資金獲得を公式に禁じ、これに着手した構成員には破門処分を科すとしていた。が、資金繰りの悪化を背景とした横行状態を黙認しているのが現状と見られていた[63]

中国ならびに台湾の暴力団とのつながり

近年、中国共産党による一国二制度を台湾にも適応することを主張する政党、中華統一促進党との関係が指摘されているほか、台湾の暴力団竹聯幇との関係も報道されている[64][65][66][67]

沖縄の「ヤクザ」

沖縄の「ヤクザ」は本土のそれとは異なり、戦後に発生した。本土「ヤクザ」の組織内部の関係では親と子の結びつきが主になり、いわゆるを交わすと年齢に関係なく親分子分の関係になるが、沖縄「ヤクザ」の場合には沖縄一般社会が兄弟的関係や血縁関係が強いため、本土の「ヤクザ」とは若干異なる組織形態で発展した。そのため、本土の「ヤクザ」とは色彩を異にする抗争を繰り広げることにもなった。地理的な条件もあるが、武装抗争を伴う熾烈な抵抗が行われてきた歴史もあり、山口組を始めとする本土の広域暴力団の進出が(例外はあるにせよ)広島県とともに無い地域である。とはいえ島内二大勢力の一方にあたる「旭琉会」が山口組と友好関係を築いていたこともあり、山口組の影響力が皆無という状況ではない(これは共政会俠道会が山口組と友好関係を樹立した広島も同様である)。その点で、山口組の力がまるで及ばない状況にあるとされる九州北部とは異なっている。

歴代

会長

  • 沖縄連合旭琉会 - 仲本善忠(1970年 - 1975年10月逮捕(→無期懲役[68]仮釈放を間近に控えていたが風邪をこじらせ死去[68]
  • 二代目旭琉会(沖縄旭琉会) - 多和田真山(1976年 - 1982年死去)
  • 三代目旭琉会 - 翁長良宏(1983年5月 - 2010年)2017年6月29日、肺炎のため死去[69]
  • 四代目旭琉会 - 花城松一(2010年 - 2011年)
  • 旭琉會初代 - 富永 清(2011年 - 2019年7月12日死去)
  • 旭琉會二代目 - 糸数 真(2025年2月[70] - 2026年4月19日死去)六代目山口組幹部野内正博(四代目弘道会長)と兄弟分である[71]

旭琉會役職(発足時)

出典:実話時報 2012年2月号[19]
  • 会長 - 富永清
  • 会長代行 - 花城松一
  • 理事長 - 上里忠盛
  • 副理事長
    • 髙江洲良吉
    • 志多伯幸仁
  • 本部長 - 上江洲丈二
  • 幹事長 - 永山克博
  • 組織委員長 - 中村實
  • 懲罰委員長 - 糸数幸昌
  • 風紀委員長 - 宮城保彦
  • 運営委員長 事務局長 - 座安隆
  • 渉外委員長 - 與那哲也
  • 総務委員長 - 又吉敏廣
  • 慶弔委員長 - 山城茂
  • 会長秘書
    • 糸数真
    • 狩俣重三
    • 知念秀視

三代目旭琉会役職

  • 会長 - 翁長良宏
  • 理事長 - 花城松一(沖島一家総長)
  • 副会長 - 呉屋栄信(丸良一家総長)・仲程光男(丸長一家総長)・志慶真盛繁
  • 本部長 - 高江洲良吉(錦一家総長)
  • 幹事長 - 中村實(桜一家総長)
  • 組織委員長 - 安慶名誉夫(誉一家総長)
  • 事務局長 - 糸数幸昌(ナニワ一家総長)
  • 理事長補佐 - 志多伯幸仁(志多伯一家総長)・久高将茂(丸宏一家総長)
  • 副本部長 - 金城正雄(金星一家総長)
  • 会長秘書 - 糸数光秀(洸成一家総長)
  • 幹事長補佐 - 知念正人(知念一家総長)・宮城正春(二代目丸神一家総長)

四代目旭琉会役職

  • 会長 - 花城松一
  • 会長代行 - 高江洲良吉(錦一家総長)
  • 副会長 - 志多伯幸仁(志多伯一家総長)
  • 理事長 - 中村實(桜一家総長)・糸数幸昌(ナニワ一家総長)
  • 本部長 - 安慶名誉夫(誉一家総長)
  • 幹事長 - 久高将茂(丸宏一家総長)
  • 組織委員長 - 知念正人(知念一家総長)
  • 理事長代行 - 知念秀視(二代目沖島一家総長)
  • 理事長補佐 - 糸数光秀(洸成一家総長)・宮城正春(二代目丸神一家総長)
  • 副本部長 - 豊里友尚(二代目丸長一家総長)
  • 会長秘書 - 山城茂(一心一家総長)
  • 幹事長補佐 - 伊波健(二代目嘉手刈一家総長)・仲程光男(二代目丸良一家総長)

関連書籍

  • 大島幸夫『沖縄ヤクザ戦争』(1978年晩声社
  • 『沖縄ヤクザ50年戦争 分裂、抗争、統一、そして分裂』(2004年6月 洋泉社ムック)
  • 山平重樹『旭龍 沖縄ヤクザ統一への軌跡 富永清・伝』(2014年4月 幻冬舎アウトロー文庫)
劇画
  • 作画・二ツ木哲郎『山口組抗争史 壮絶山口組VS沖縄ヤクザ』(2010年2月 竹書房バンブー・コミックス)脚本・土井泰昭

関連映像作品

  • 中島貞夫監督『沖縄やくざ戦争』(1976年9月4日、東映)主演・松方弘樹
  • OZAWA監督『実録・沖縄やくざ戦争 いくさ世30年』(2002年、GPミュージアムソフト/プレイビル・ドーダサービス、全3作)主演・小沢仁志
  • 旭正嗣監督『実説・沖縄ヤクザ抗争 いくさ世アシバー上原勇一』(2009年、GPミュージアムソフト、全2作)主演・大沢樹生

関連項目

脚注

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