明教学校
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1878年(明治11年)、英国聖公会宣教協会(CMS)のジョン・パイパー司祭が東京・築地居留地52番に「聖保羅教会/聖パウロ教会(セントポール教会)」を創設[1]。
1879年(明治12年)、 パイパーの夫人・メリーが始めた裁縫教室をきっかけに、パイパーは聖保羅教会の隣(築地居留地51番[3])に 『明教学校』を創設し、同年12月に開校する[1]。
学校の建築費と設備費は、イギリスの友人たちからの寄付でまかなったほか、日本人の信徒からも15円の寄付を受けた。小さな学校ではあったが、座席数は50から60程度はあった[1]。
学校は小学校で、教育課程は通常の小学校課程のほかに、メリーが編み物と裁縫を教えた。信徒の鶴本利則がパイパーとともに、明教学校の運営も担った。また、鶴本の父が本所区松倉町(現・墨田区東駒形3・4丁目、本所3・4丁目)に居住していたが、パイパー夫妻は毎週水曜日にそこへ出掛けてマタイ伝を講じている[1]。
その後、英国聖公会宣教協会(CMS)の東京宣教の方針の変化に伴い、聖保羅教会を移転することが大きな課題となり、この教会移転に関連して隣接する明教学校の移転が問題となった[2]。
1896年(明治29年)2月22日に、東京に着任したウィリアム・バンカム(William Pengelly Buncombe 1856-1943)司祭は、南東京地方の管理司祭として、この移転問題を担うことになる。学校は居留地周辺の貧しい子供たちを教育してきた貴重な存在だったが、教会が移転する予定となった東京・銀座の歌舞伎座の裏手の敷地(東京市京橋区木挽町3丁目13番地)にはゆとりがなく、学校をそこに移転できないことに加え、なんとか移転したとしても児童らが遠くて通えない問題があった。当時の児童数は30人から50人程度だった。加えて、近くには多くの公立の小学校やミッションスクールがあることから閉鎖するほうがいいとの考えがバンカムにはあった[2]。
こうして、明教学校は父兄委員会の承認を経て、1897年(明治30年)年11月に閉鎖する。教師と子供は近隣のアメリカミッションの小学校に引き取ってもらった[2]。
銀座での聖保羅教会の新しい教会堂は、1898年(明治31年)8月に建築工事を開始し、同年10月15日にはオードレー監督(主教)の手により定礎式が行われた。1899年(明治32年)1月20日に献堂式があり、同じくオードレー監督(主教)により聖別式が行われた。新会堂は、聖保羅教会として三番目の聖堂であった[2]。
その他
脚注
- 1 2 3 4 5 名取 多嘉雄「日本聖公会横浜教区におけるC.M.S.の房州宣教 (1)」『立教女学院短期大学紀要』第36巻、立教女学院短期大学、2004年、51-74頁、ISSN 2432-3195。
- 1 2 3 4 5 名取 多嘉雄「日本聖公会横浜教区におけるC.M.S.の房州宣教 (4)」『立教女学院短期大学紀要』第39巻、立教女学院短期大学、2007年、89-104頁、ISSN 2432-3195。
- ↑ 『038 中央区 明石町・新富町』 ぶらり東京、江戸散歩,近況報告・随想,九州大学ボート部後援会 名島会関東支部 (PDF)
- ↑ 神辺 靖光「学制期における東京府の私立外国語学校 : その形態と継続状況についての一考察」『日本の教育史学』第17巻、教育史学会、1974年10月、4-25頁、ISSN 2189-4485。
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