李信
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秦が紀元前230年に韓を滅ぼした後(韓攻略)、趙攻めを命じられた王翦が数十万の兵を率いて漳・鄴に布陣した時、李信は太原・雲中に出征していたとされる(趙攻略)[3]。
始皇21年(紀元前226年)、秦王政は前年の燕の太子丹が主導した荊軻による暗殺未遂事件の報復として、燕の国都薊(現在の北京市西南)を攻め落とした。丹は精鋭軍を率いて東方の遼東に逃れていたが、これを李信が数千の兵の指揮を執って追撃し、衍水の中まで追い込んで丹を捕らえた[2][4][注 1]。その後、秦と燕は一時的に停戦したと思われる。
秦王政は楚を滅ぼすためにどれだけの兵数が必要かを諸将に諮問した。李信は「20万で十分」と答え、一方で王翦は「60万が必要」と答えた。秦王政は王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用し、李信と蒙恬に楚の攻略を命じた[4]。
始皇22年(紀元前225年)、李信と蒙恬は総兵員20万を二つの軍に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝[注 2]で楚軍に大勝した。さらに李信は鄢郢[注 3]を攻めてこれを破った[4]。
その後、李信は兵を引いて西へ向かい、城父(現在の安徽省亳州市譙城区)で蒙恬と合流しようとしたところを楚軍に攻撃され、三日三晩にわたる不休の追撃によって李信の軍は壊滅に追い込まれた。さらに楚軍に二つの拠点に侵入され、都尉を7人討ち取られて秦軍は潰走した[4]。
この敗戦の報を受けた秦王政は激怒し、隠退していた王翦のもとに謝罪に訪れ、再び将として軍を率いてくれるよう懇願した[4]。
始皇23年(紀元前224年)、李信と交代した王翦と蒙武が60万の軍で楚を攻め、始皇24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした(楚攻略)[4][5][6]。
始皇25年(紀元前222年)、王賁が燕を滅ぼすために遼東に侵攻し、李信は王賁に従って燕を攻めた。秦軍は燕王喜を捕虜とし、燕を滅ぼした(燕攻略)[4][5]。
始皇26年(紀元前221年)、王賁・蒙恬と共に斉を攻め、これを滅ぼした(斉攻略)[4][5][6]。これによって六国を滅ぼした秦は天下を統一した[7]。
李信のその後については伝世の史書及び現在までに発見されている史料に記載はなく、不明である。
人物
楚攻略戦の敗因について
宿将王翦の老練な見立てに比して、若気による軽挙妄動が敗因と捉えられることが後世では一般的である。しかし別の敗因説を唱える言説も少なくなく、その論は昌平君の反乱に原因を求めるものである。
昌平君は秦の重臣にして楚の公子であったが、紀元前226年に楚の旧都郢に移され、紀元前224年に楚の将軍項燕によって楚王に立てられ、秦に反旗を翻した人物である[5]。楚は国都をいずれも「郢」と命名しており、この言説における郢は紀元前278年に白起が陥落させて南郡が置かれた方ではなく、その後に遷都した陳(郢陳)の方とする説を取る[注 4]。
『史記』の記述では李信はまず平輿を攻め、次いで鄢郢を破った後、「そこで兵を引いて西に向かい」城父を目指し、これを楚軍に追撃されたとある[4]。しかし城父は鄢郢の北東に位置するため、西進とするのは不可解である。

この進軍の理由について、歴史学者の田余慶は次のような推論を導き出している。
鄢郢とは鄢と当時の楚の国都寿春(郢)を意味し、つまり秦軍が寿春(郢)を攻め落として楚を滅ぼそうとしたまさにその時、陳(郢陳)にいた昌平君が謀反を起こして挙兵したため、李信は楚攻めを中止せざるを得なくなり、軍を北西に返して蒙恬と合流しようとした結果、前後から楚軍の挟撃を受けて大敗を喫したのだという。
この論を実証できる材料は今のところ存在しないが、現在、中国のオンライン百科事典などでは事実として記述されており、中国のドラマ『始皇帝 天下統一』でも採用されるなど、社会一般に十分に浸透しているものと思われる。
