東和町米川
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| 東和町米川 | |
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| 大字 | |
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| 国 |
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| 都道府県 |
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| 市町村 |
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| 地域 | 東和地域 |
| 人口情報(2020年10月1日時点[1]) | |
| 人口 | 2,088 人 |
| 世帯数 | 748 世帯 |
| 設置日 | 1956年(昭和31年)9月30日 |
| 郵便番号 | 987-0901[2] |
| 市外局番 | 0220(迫MA)[3] |
| ナンバープレート | 宮城 |
| 運輸局住所コード | 04511-0095[4] |
| 町字ID[5] | 0338000 |
東和町米川(とうわちょうよねかわ)は、宮城県登米市東和地域にある大字。旧登米郡狼河原村・鱒淵村、登米郡米川村、登米郡米川村大字狼河原・大字鱒淵、登米郡日高村米川、登米郡東和町米川に相当する。郵便番号は987-0901[2]。隠れキリシタンの里として知られる[6]。本項では廃止された大字である大字狼河原および大字鱒淵についても解説する。
地形
東和町米川は登米市の北東部、東和地区の北東部に位置し、東で気仙沼市本吉町と、東南で本吉郡南三陸町入谷と、南で東和町米谷と、西で東和町錦織と、北で岩手県一関市藤沢町黄海、藤沢町藤沢、藤沢町大籠と接する。
登米市例規「登米市行政区長設置条例施行規則」(2025年4月1日改正施行)によれば、東和町米川は米川第1区から米川第10区を行政区として擁する[7]。
- 河川
- 二股川 - 岩手県一関市藤沢町大籠を水源とする河川で北上川水系に属する[8]。
- 鱒渕川 - 鱒渕地区を流れる小川で、二俣川にそそぐ[9]。ゲンジボタルの集団発生地として有名で国の天然記念物に指定されている[9]。
- 山々
- 蚕飼山 - 標高418.1 m[10]。
- 五百峠 - 鱒渕に所在[10]。標高354.3 m[10]。
- 高塒山 - 鱒渕に所在[10]。313.8 m[10]。
- 権現森 - 鱒渕に所在[10]。標高310.7 m[10]。
- 八森山 - 標高302.0 m[10]。
小字
仙台法務局登米支局の「登米市登記所備付地図データ」(2025年4月15日時点)、デジタル庁公表のアドレス・ベース・レジストリの「宮城県 登米市 町字マスター(フルセット)」(2025年8月9日時点)および東和町出版の「東和町史」(2004年1月22日時点)によれば、藤間町米川の小字は以下の通りである[11][4][5][12][注 1]。なお、町字IDは「登米市町字マスターデータセット(フルセット)」(2025年8月9日時点)に基づく。
| 町字ID | 町・字 | 出典 | |||
|---|---|---|---|---|---|
| 大字 | 小字 | 町字マスター | 登記 | 町史 | |
| 0338101 | 東和町米川 | 字合ノ木 | ○ | ○ | ○ |
| 0338102 | 字舘ノ下 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338103 | 字金田 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338104 | 字軽米 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338105 | 字後田 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338106 | 字佐野前 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338107 | 字山根 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338108 | 字山崎 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338109 | 字四十田 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338110 | 字寺前 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338111 | 字寺内 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338112 | 字小山下 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338113 | 字小出沢 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338114 | 字小田 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338115 | 字松坂 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338116 | 字城ノ内 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338117 | 字新山根 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338118 | 字新四十田 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338121 | 字新中田 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338122 | 字新土手前 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338123 | 字深田 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338124 | 字西綱木 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338125 | 字西上沢 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338126 | 字青木 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338127 | 字青木一号 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338128 | 字青木三号 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338129 | 字青木四号 | ○ | × | ○ | |
| 0338130 | 字青木二号 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338131 | 字貸上 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338132 | 字大綱木 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338133 | 字大柄沢 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338134 | 字中田 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338135 | 字中嶋 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338136 | 字町 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338137 | 字町下 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338138 | 字町裏 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338139 | 字土手外 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338140 | 字土手前 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338141 | 字東綱木 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338142 | 字東上沢 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338143 | 字道木 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338144 | 字銅円沢 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338145 | 字南上沢 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338146 | 字馬ノ足 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338147 | 字飯土井 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338148 | 字富沢 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338149 | 字北上沢 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338150 | 字末田 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338151 | 字余玉 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338152 | 字力畑 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338153 | 字六反 | ○ | ○ | ○ | |
| 0338154 | 字狼河原土手外 | ○ | × | ○ | |
歴史

文治5年(1189年)、奥州の覇者であった奥州藤原氏の討伐に成功した源頼朝は藤原氏の領土を没収し、自らの配下の将に土地を与えた[13]。登米郡は牡鹿郡や磐井郡などとともに、下総国葛西の地を本拠地としていた御家人葛西清重の所領となった[13]。
江戸期には登米郡のうち、川東7ケ村(米谷・楼台・北方・狼河原・鱒渕・西郡・嵯峨立)の一部として支配された[14]。
狼河原では仙台藩内で最もタバコが栽培されていた[15]。その起源は朝鮮征伐の折、タバコの種が朝鮮よりもたらされ、狼河原村の平沢、朴ノ沢、宝城(西上沢)で栽培してみたところ、上質のタバコが産出したため、以降毎年藩に献上された[15]。他地域でもタバコは生産されたが、狼河原のタバコはとくに良質であったとされ、「長命草」や「河原草」と呼ばれた[16]。伊達慶邦が領内視察に訪問した際には、タバコの風味をし、タバコについて大いに褒めたと伝えられている[16]。しかし、1910年(明治43年)に大蔵省煙草専売特許の都合により、煙草の耕作禁止令が出され、320年間続いていたタバコ耕作を中止することとなった[16]。
また、狼河原は隠れキリシタンの里としても知られる[17]。キリスト教は永禄元年(1558年)に、森合城城主初代千葉土佐から招かれた千松大八郎・小八郎(備前国出身)により製鉄技術とともに狼河原の地に伝来し、最初は製鉄の際にキリスト教の「おまじない」を唱えると鉄が簡単に解ける[注 2]ということで、教えが広まった[17][18]。実際、この地域では慶長15年(1610年)建立の供養碑に三位一体の印がしっかりとついている[19]。しかし、江戸幕府によりキリスト教が禁止されると仙台藩内でキリスト教弾圧が行われるようになり、1620年(元和6年)には仙台城下の広瀬川刑場にて言語に絶する大弾圧が行われた[20]。その後もキリシタンに対する弾圧は続けられ、狼河原の信徒らは自らの信仰を隠す隠れキリシタンとなった[20]。寛永期以降、狼河原の地ではキリシタンはほぼ消滅したが、僅かに残った120名の信徒があるとき、一網打尽され改宗を迫った[21]。しかし、信徒のうち120名は改宗を拒否したことで処刑され、40名ずつお経とともに埋められた[21]。これは三経塚と呼ばれるようになり、周辺地域における最後のキリシタン弾圧となった[21][22]。
1956年(昭和31年)9月30日、錦織村と米川村が合併し、日高村が成立した[23]。これに基づき、同日、米川村大字狼河原・大字鱒淵の区域をもって米川が成立、同年10月24日に
字の区域並びにその名称変更(昭和31年宮城県告示第866号)が告示された[24]。なお、両大字は字土手下を擁したいたことから、重複を避けるために大字狼河原字土手下は米川字狼河原土手下に、大字鱒淵字土手下は米川字鱒淵土手下に改称された[24]。
沿革
- 永禄元年(1558年) - 先進的な製鉄技術とともにキリスト教が伝来[17]。
- 天正19年(1591年) - 伊達政宗が領有し、後に仙台藩領となる[25]。
- 明治元年(1868年)12月 - 土浦藩の支配下に置かれる[26][27]。
- 明治2年(1869年)
- 明治4年(1871年)
- 1873年(明治6年)6月 - 米川小学校が開校[28]。
- 1874年(明治7年)12月26日 - 四等郵便取扱所が狼河原村105番地にて開局[29]。
- 1875年(明治8年)
- 10月17日 - 水沢県における村落統合の一環で狼河原村と鱒渕村が合併し、米川村が成立。
- 11月22日 - 磐井県に属する[30]。
- 1876年(明治9年)4月 - 宮城県に属する[30]。
- 1880年(明治13年) - 狼河原、鱒渕、嵯峨立、西郡、米谷を管轄区域として狼河原村派出所設置[31]。
- 1881年(明治14年)
- 1883年(昭和16年)- 狼河原巡査派出所が設置される[31]。のちに米川巡査駐在所と改称[31]。
- 1889年(明治22年) - 狼河原村と鱒渕村が合併、町村制を施行し[23]、米川村が成立[23]。大字狼河原と大字鱒淵の2大字を編成。
- 1926年(昭和元年)12月26日 - 狼河原郵便局で電話業務開始[32]。
- 1931年(昭和6年)6月 - 米川託児所が開設[33]。
- 1933年(昭和8年)4月1日 - 狼河原郵便局が米川郵便局となる[29]。
- 1937年(昭和12年) - 米川郵便局で電話事務開始[32]。これにより電話の一般通話が可能になる[32]。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 米川中学校が開校[34]。
- 1949年(昭和24年) - 社会教育法の施行に伴い、米川公民館が設置される[35]。
- 1950年(昭和25年)12月1日 - 米川診療所が開設[36]。
- 1956年(昭和31年)9月30日 - 錦織村と米川村が合併し、日高村が成立[23]。これにより米川村大字狼河原および大字鱒淵は日高村米川となる[37]。
- 1957年(昭和32年) - 米谷町と日高村が合併し、東和町が誕生[38]。日高村米川は東和町米川となる[38]。
- 2005年(平成17年) - 東和町が他の登米郡の町々、本吉郡津山町と合併し、登米市が誕生。米川は登米市東和町米川となった[39]。
- 2008年(平成20年)4月1日 - 米川小学校と鱒淵小学校が統合し、新制の米川小学校が開校[40]。
地名の由来
- 米川
1875年(明治8年)、狼河原村と鱒淵村が合併する際に、役場のある狼河原か知名度で勝る鱒淵かどちらを村名とするか、なかなか決まらず、県に村名について依頼したところ、登米郡内に米山村や米谷村など「米」の字が付く村があるので「米川村」がよいであろうということで命名された[41]。
- 狼河原
源頼義が前九年の役の際、この地を通ったら狼が多くいたのでもともと「若の里[注 4]」もしくは「若草」と呼ばれていた当地を「狼河原」と命名したとされる[43]。古くは「不老河原(おいぬかわら)」とも記されたが、狼河原の地名が先に生じたという見方が有力である[42]。
- 鱒淵
坂上田村麻呂が蝦夷を征討した際に、死んだ馬の供養の為に馬頭観音堂を建て、「馬首仏」となったのが「鱒淵」となったことで村名になったと伝えられている[44]。もとは「馬淵」もしくは「魔淵」と呼ばれていた[42]。
施設
交通
学区
宗教
旧所・名跡
古城
- 鳩岡城
西上沢に所在[57]。狼河原城や畑沢城、旗竿城とも呼ばれ、米谷城城主亀掛川胤氏の4代目政明の4男信明が応安2年(1369年)に初代城主となった[58][59]。その後、8代目城主である米谷常隆が天正19年(1591年)8月14日に桃生郡深谷糠塚の地にてほかの葛西家旧臣らとともに集合したところ、伊達政宗の陰謀により襲撃され自害したことで鳩岡城は城主不在となり亡びた[59]。
- 上沢城
- 高古屋城
東上沢に所在[60]。千田甲運の居城と伝えられており、葛西氏滅亡とともに亡びた[60]。
- 鱒渕城
鱒渕館ノ下に所在[61]。南城とも呼ばれ、桃生郡太田城の城主及川光村が大永2年(1522年)に移り初代城主となった[61]。
- 平城
鱒渕力畑に所在[62]。中世には平氏の居城であったが、ある年に攻められ平氏は馬籠に逃れたものの、城は廃城となった[62]。
旧家
- 鱒渕及川氏
- 小野寺氏
葛西氏の一族で葛西信篤の子孫にあたる[65]。葛西大崎一揆の一揆勢が奥州仕置軍により討伐された際に、葛西氏の旧臣小野寺源五郎が幼少の葛西信篤を匿い、以降鱒渕に隠れ住み現在に至る[65]。
- 狼河原亀掛川氏
本姓は平姓千葉氏支流[65]。葛西氏が奥州に下向する際に下総国千葉郡に居住していた千葉胤氏が主君に伴って米谷城に移った際に亀掛川を名乗ったのが亀掛川姓の始まりであるが、狼河原亀掛川氏は5代目盛政の弟が狼河原城主として分家されたのが始まりである[66][67]。
- 宝城屋敷首藤氏
本姓は藤原北家英郷流であり、首藤信英を初代とする[68]。信英は、もともと葛西家の家臣で桃生郡福地城城主首藤対馬の子で、首藤対馬が死去し信英の母が狼河原村の沼倉善左衛門の後妻となる折に、信英に沼倉ではなく首藤を名乗らせることを願い、慶長7年(1602年)に首藤を名乗った[69]。
- 藤原姓須藤氏