東和町米川

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東和町米川(とうわちょうよねかわ)は、宮城県登米市東和地域にある大字。旧登米郡狼河原村鱒淵村、登米郡米川村、登米郡米川村大字狼河原大字鱒淵、登米郡日高村米川、登米郡東和町米川に相当する。郵便番号は987-0901[2]隠れキリシタンの里として知られる[6]。本項では廃止された大字である大字狼河原および大字鱒淵についても解説する。

地形

東和町米川は登米市の北東部、東和地区の北東部に位置し、東で気仙沼市本吉町と、東南で本吉郡南三陸町入谷と、南で東和町米谷と、西で東和町錦織と、北で岩手県一関市藤沢町黄海藤沢町藤沢藤沢町大籠と接する。

登米市例規「登米市行政区長設置条例施行規則」(2025年4月1日改正施行)によれば、東和町米川は米川第1区から米川第10区を行政区として擁する[7]

河川
山々
  • 蚕飼山 - 標高418.1 m[10]
  • 五百峠 - 鱒渕に所在[10]。標高354.3 m[10]
  • 高塒山 - 鱒渕に所在[10]。313.8 m[10]
  • 権現森 - 鱒渕に所在[10]。標高310.7 m[10]
  • 八森山 - 標高302.0 m[10]

小字

仙台法務局登米支局の「登米市登記所備付地図データ」(2025年4月15日時点)、デジタル庁公表のアドレス・ベース・レジストリの「宮城県 登米市 町字マスター(フルセット)」(2025年8月9日時点)および東和町出版の「東和町史」(2004年1月22日時点)によれば、藤間町米川の小字は以下の通りである[11][4][5][12][注 1]。なお、町字IDは「登米市町字マスターデータセット(フルセット)」(2025年8月9日時点)に基づく。

町字ID 町・字 出典
大字 小字 町字マスター 登記 町史
0338101 東和町米川 字合ノ木
0338102 字舘ノ下
0338103 字金田
0338104 字軽米
0338105 字後田
0338106 字佐野前
0338107 字山根
0338108 字山崎
0338109 字四十田
0338110 字寺前
0338111 字寺内
0338112 字小山下
0338113 字小出沢
0338114 字小田
0338115 字松坂
0338116 字城ノ内
0338117 字新山根
0338118 字新四十田
0338121 字新中田
0338122 字新土手前
0338123 字深田
0338124 字西綱木
0338125 字西上沢
0338126 字青木
0338127 字青木一号
0338128 字青木三号
0338129 字青木四号 ×
0338130 字青木二号
0338131 字貸上
0338132 字大綱木
0338133 字大柄沢
0338134 字中田
0338135 字中嶋
0338136 字町
0338137 字町下
0338138 字町裏
0338139 字土手外
0338140 字土手前
0338141 字東綱木
0338142 字東上沢
0338143 字道木
0338144 字銅円沢
0338145 字南上沢
0338146 字馬ノ足
0338147 字飯土井
0338148 字富沢
0338149 字北上沢
0338150 字末田
0338151 字余玉
0338152 字力畑
0338153 字六反
0338154 字狼河原土手外 ×

歴史

米川地区中心部の町並み(2025年撮影)

文治5年(1189年)、奥州の覇者であった奥州藤原氏の討伐に成功した源頼朝は藤原氏の領土を没収し、自らの配下の将に土地を与えた[13]登米郡牡鹿郡磐井郡などとともに、下総国葛西の地を本拠地としていた御家人葛西清重の所領となった[13]

江戸期には登米郡のうち、川東7ケ村(米谷楼台北方・狼河原・鱒渕・西郡嵯峨立)の一部として支配された[14]

狼河原では仙台藩内で最もタバコが栽培されていた[15]。その起源は朝鮮征伐の折、タバコの種が朝鮮よりもたらされ、狼河原村の平沢、朴ノ沢、宝城(西上沢)で栽培してみたところ、上質のタバコが産出したため、以降毎年藩に献上された[15]。他地域でもタバコは生産されたが、狼河原のタバコはとくに良質であったとされ、「長命草」や「河原草」と呼ばれた[16]伊達慶邦が領内視察に訪問した際には、タバコの風味をし、タバコについて大いに褒めたと伝えられている[16]。しかし、1910年(明治43年)に大蔵省煙草専売特許の都合により、煙草の耕作禁止令が出され、320年間続いていたタバコ耕作を中止することとなった[16]

また、狼河原は隠れキリシタンの里としても知られる[17]キリスト教は永禄元年(1558年)に、森合城城主初代千葉土佐から招かれた千松大八郎・小八郎(備前国出身)により製鉄技術とともに狼河原の地に伝来し、最初は製鉄の際にキリスト教の「おまじない」を唱えると鉄が簡単に解ける[注 2]ということで、教えが広まった[17][18]。実際、この地域では慶長15年(1610年)建立の供養碑に三位一体の印がしっかりとついている[19]。しかし、江戸幕府によりキリスト教が禁止されると仙台藩内でキリスト教弾圧が行われるようになり、1620年(元和6年)には仙台城下の広瀬川刑場にて言語に絶する大弾圧が行われた[20]。その後もキリシタンに対する弾圧は続けられ、狼河原の信徒らは自らの信仰を隠す隠れキリシタンとなった[20]。寛永期以降、狼河原の地ではキリシタンはほぼ消滅したが、僅かに残った120名の信徒があるとき、一網打尽され改宗を迫った[21]。しかし、信徒のうち120名は改宗を拒否したことで処刑され、40名ずつお経とともに埋められた[21]。これは三経塚と呼ばれるようになり、周辺地域における最後のキリシタン弾圧となった[21][22]

1956年(昭和31年)9月30日、錦織村と米川村が合併し、日高村が成立した[23]。これに基づき、同日、米川村大字狼河原・大字鱒淵の区域をもって米川が成立、同年10月24日に 字の区域並びにその名称変更(昭和31年宮城県告示第866号)が告示された[24]。なお、両大字は字土手下を擁したいたことから、重複を避けるために大字狼河原字土手下は米川字狼河原土手下に、大字鱒淵字土手下は米川字鱒淵土手下に改称された[24]

沿革

地名の由来

米川

1875年(明治8年)、狼河原村と鱒淵村が合併する際に、役場のある狼河原か知名度で勝る鱒淵かどちらを村名とするか、なかなか決まらず、県に村名について依頼したところ、登米郡内に米山村米谷村など「米」の字が付く村があるので「米川村」がよいであろうということで命名された[41]

狼河原

源頼義前九年の役の際、この地を通ったらが多くいたのでもともと「若の里[注 4]」もしくは「若草」と呼ばれていた当地を「狼河原」と命名したとされる[43]。古くは「不老河原(おいぬかわら)」とも記されたが、狼河原の地名が先に生じたという見方が有力である[42]

鱒淵

坂上田村麻呂蝦夷を征討した際に、死んだ馬の供養の為に馬頭観音堂を建て、「馬首仏」となったのが「鱒淵」となったことで村名になったと伝えられている[44]。もとは「馬淵」もしくは「魔淵」と呼ばれていた[42]

施設

道の駅林林館

交通

鉄道

域内に鉄道駅はない。最寄駅は柳津駅JR気仙沼線)が挙げられる。

ただし、仙北鉄道が廃止される1968年(昭和43年)までは米谷駅が、東北地方太平洋沖地震が発生した2011年(平成23年)3月11日までは志津川駅(JR気仙沼線)が最寄り駅であった。

道路

国道
一般県道

学区

登米市例規「登米市就学すべき学校の指定に関する規則」(2025年4月1日改正施行)によれば、小中学校の学区登米市立東和小学校登米市立東和中学校となっている[52]。かつては域内に登米市立米川小学校、東和町立米川中学校などが所在していたが、前者は2025年(令和7年)3月、後者は1976年(昭和51年)3月をもって閉校した[53][34]

宗教

キリスト教

先述の通り、狼河原は隠れキリシタンの里として知られており、江戸時代には大籠と並び、周辺地域におけるキリスト教の中心地であった[54]。戦後になり、三経塚の伝説(キリシタンの大弾圧事件)をしるした書物が発見されると、米川は隠れキリシタンの里として脚光を浴び、1955年(昭和30年)1月、米川カトリック教会の建立をみるようになった[21]。第一回集団洗礼式では175名が洗礼を受け、多くの信徒を擁するようになった[54][6]。隠れキリシタンの信仰を伝える遺物として釈迦を模したキリスト像やマリア観音像などが伝わる[55][56]

旧所・名跡

古城

鳩岡城

西上沢に所在[57]。狼河原城や畑沢城、旗竿城とも呼ばれ、米谷城城主亀掛川胤氏の4代目政明の4男信明が応安2年(1369年)に初代城主となった[58][59]。その後、8代目城主である米谷常隆が天正19年(1591年)8月14日に桃生郡深谷糠塚の地にてほかの葛西家旧臣らとともに集合したところ、伊達政宗の陰謀により襲撃され自害したことで鳩岡城は城主不在となり亡びた[59]

上沢城
高古屋城

東上沢に所在[60]。千田甲運の居城と伝えられており、葛西氏滅亡とともに亡びた[60]

鱒渕城

鱒渕館ノ下に所在[61]。南城とも呼ばれ、桃生郡太田城の城主及川光村が大永2年(1522年)に移り初代城主となった[61]

平城

鱒渕力畑に所在[62]。中世には平氏の居城であったが、ある年に攻められ平氏は馬籠に逃れたものの、城は廃城となった[62]

旧家

鱒渕及川氏

本姓は源姓で、及川頼家を初代とする[63][64]

小野寺氏

葛西氏の一族で葛西信篤の子孫にあたる[65]葛西大崎一揆の一揆勢が奥州仕置軍により討伐された際に、葛西氏の旧臣小野寺源五郎が幼少の葛西信篤を匿い、以降鱒渕に隠れ住み現在に至る[65]

狼河原亀掛川氏

本姓は平姓千葉氏支流[65]。葛西氏が奥州に下向する際に下総国千葉郡に居住していた千葉胤氏が主君に伴って米谷城に移った際に亀掛川を名乗ったのが亀掛川姓の始まりであるが、狼河原亀掛川氏は5代目盛政の弟が狼河原城主として分家されたのが始まりである[66][67]

宝城屋敷首藤氏

本姓は藤原北家英郷流であり、首藤信英を初代とする[68]。信英は、もともと葛西家の家臣で桃生郡福地城城主首藤対馬の子で、首藤対馬が死去し信英の母が狼河原村の沼倉善左衛門の後妻となる折に、信英に沼倉ではなく首藤を名乗らせることを願い、慶長7年(1602年)に首藤を名乗った[69]

藤原姓須藤氏

宝城屋敷首藤氏と同祖であるとされ、もともとは磐井郡黄牛に居住していたが、葛西氏滅亡後、没落し狼河原に移った[70]

脚注

参考文献

外部リンク

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