林家とみ
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『かみがた演芸 漫才太平記』(三和図書、1964年)より[1] | |
| 基本情報 | |
| 出生名 |
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| 生誕 | 1883年11月26日 |
| 出身地 |
(現:大阪市都島区) |
| 死没 | 1970年4月1日(86歳没) |
| 学歴 | 尋常小学校 |
| ジャンル | 上方寄席下座音楽 |
| 職業 | 三味線方 |
| 担当楽器 | 三味線 |
| 活動期間 | 1909年 - 1969年 |
| 配偶者 | 2代目林家染丸 |
| 著名な家族 | 林家 染丸(夫) |

『大阪史話』(創元社、1965年)[2]
林家 とみ(はやしや とみ、1883年(明治16年)11月26日 - 1970年(昭和45年)4月1日[3])は、明治から昭和にかけての女性三味線奏者。名前は「林家トミ」とも表記される[3]。本名は岡本 トミ(おかもと トミ、旧姓:岩崎)[3]。上方落語で下座囃子として活躍した。愛称は「おとみさん」「おはやしのおとみさん」「おとみはん」等[要出典]。夫は落語家の2代目林家染丸[3]。
大阪府網島(現在の大阪市都島区)に生まれる[3]。会社員の父親を持ち、9人兄弟(男4・女5)の5女で末子だった[3][4]。落語好きの父・芸事好きの母という環境で、自身も幼少期から長唄・端唄といった芸事に親しむ一方、学業はあまり好まなかったという[4]。三味線は数え年6歳のころから、趣味としていた母親に習い事として仕込まれた[5]。尋常小学校(当時は4年制)卒業後に針屋で裁縫を数え年18歳か19歳ごろまで学んで修了、以降は南のお茶屋で手伝いとして働いた[5]。
1909年、満26歳の年に順慶町(現・大阪市中央区南船場)の寄席「井戸の辻席」に初めて下座として勤める[3]。下座になった経緯について、1965年の『大阪史話』は自宅近くに居住していた落語家(林家某と記載)に頼んだとする[6]。3代目桂文團治の妻・まさから囃子方の指導を受けた[3]。
1914年に2代目染丸と結婚し「林家とみ(トミ)」を名乗る[3]。戦前は大阪市内の多くの寄席に出演した。地域別には、西区が瓢亭(新町)・此花館(和泉町)・賑江亭(しんえてい、堀江)・松島花月(松島町)、南(ミナミ)が紅梅亭(法善寺)、北が花月などである[3]。染丸の弟子である3代目林家染丸によると、1940年ごろに染丸が吉本興業から引退を勧告された際、とみも囃子方の仕事から退かされたという[7]。やむなく染丸夫妻は親交の深かった講談師の大島伯鶴を頼る形で東京に移住したが、1年ほどで帰阪した[7]。帰阪後のとみは、寄席が廃滅して小学校などを会場に細々と続いていた演芸公演で囃子方に復帰した(時節柄もんぺ姿だったという)[8]。
戦後は文楽座(四ツ橋)や戎橋松竹・歌舞伎地下演芸場[注釈 1]で勤め、最後に働いたのは千日劇場だった[3]。千日劇場勤務だった1962年に文部省から「上方寄席下座音楽継承者」として記録作成等の措置を講ずべき無形文化財の指定を受ける[3][9][注釈 2]。1967年4月には勲七等宝冠章も受章した[3]。この間、1952年11月に夫の染丸と死別した[11]。
3代目桂米朝がとみの没後に語ったところでは、死去の約3年前からは三味線の調子が狂っていても自覚しなくなり、米朝がある放送で共演した際にはとみの両側に他の囃子方(平松元女と弟子の池中スエ)を付けて二人に大きな音を出させ、とみの音を消すようにしたという[10]。
1969年4月の千日劇場閉館とともに事実上引退し、同年8月9日に大阪三越劇場での「三越落語会」において引退披露興行が行なわれた。この際に東京から立川談志がかけつけ、8代目桂文楽は「引退に惜しまれているその音じめ」の祝電を寄せた[12]。同年9月に「大阪日日賞(第24回)文化牌」を受賞した[12]。
引退披露興行から約8か月後の1970年4月1日7時30分に大阪市住吉区帝塚山の自宅で老衰のため[要出典]死去[3]。葬儀は一心寺で行われ、演芸、放送関係者を中心に1000人以上が参列した[13]。
2002年(平成14年)、「三十三回忌を偲んで」追善寄席下座がワッハ上方演芸ホールで開催され、その時点での上方林家一門、上方お囃子が総出演した[要出典]。
2004年(平成16年)に第8回(平成15年度)の上方演芸の殿堂入りに選定された[14]。
2019年(平成31年)4月1日 - 7日、天満天神繁昌亭の昼席公演で「林家とみ五十回忌追善・寄席囃子ウィーク」が開催された[15]。
人物
上方寄席囃子、あるいは大阪落語の「生き字引的存在」と称された[14][16]。下座囃子は他の分野からの転身者が多く、とみのようにこれ一本で勤め上げた人物は珍しいとされる[17]。一方、3代目桂米朝によると、月給10万でよいと言いながら勝手に他の仕事をして不足分を補うという考えで、かつ順位が下(二枚目以下)の囃子が自分より高い給料を取ることをよしとしなかったため、新人で入った囃子が安月給ととみの態度に耐えられずにすぐやめたという[10]。
染丸との間には子はなかったが[18]、結婚当初は染丸の先妻(死別)との間の遺児3人と同居した[19]。また染丸が芸妓との間に生ませた子ども(女子)も引き取って育て[注釈 3]、さらに彼女の産んだ子どもを「孫」としてかわいがった[18]。
染丸の晩年にはとみが銭湯に連れて行くのが習慣となっており、もんぺを着たまま男湯に付添い、体を洗ったりひげを剃ったりしたという[11]。