柿本神社 (明石市)
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 柿本神社 | |
|---|---|
|
拝殿 | |
| 所在地 | 兵庫県明石市人丸町1-26 |
| 位置 | 北緯34度39分00.75秒 東経135度00分05.8秒 / 北緯34.6502083度 東経135.001611度座標: 北緯34度39分00.75秒 東経135度00分05.8秒 / 北緯34.6502083度 東経135.001611度 |
| 主祭神 | 柿本人麻呂朝臣 |
| 社格等 | 旧県社 |
| 創建 | 伝・仁和3年(887年) |
| 本殿の様式 | 一間社流造銅板葺 |
| 別名 | 人丸神社 |
| 例祭 | 4月第2日曜日 |
| 主な神事 | 秋季除火大祭(10月18日) |
| 地図 | |
柿本神社(かきのもとじんじゃ)は、兵庫県明石市人丸町にある神社。人丸山(人丸山公園)の頂上に鎮座するが、山名も当神社に因むものである。旧社格は県社。旧くは「人丸神社」と称し、地元では「人丸さん」とも呼ばれる。
歴史
社伝によれば、仁和3年(887年)に明石の岡(赤松山とも。現・県立明石公園)にあった楊柳寺(後の月照寺)の覚証という住僧が夢中に柿本人麻呂の神霊がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために塚上に人麻呂を祀る祠を建てて寺の鎮守としたことに創まるという。
ただし創祀の事情に関しては、人麻呂が水死させられたという説があるので本来は非業の死を遂げた人麻呂の怨霊を慰めるために祀られた可能性、あるいは『古今和歌集』に詠み人知らずの歌として「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れゆく舟をしぞ思ふ」という歌が載せられ[1]、左註に「ある人」の言として作者は人麻呂であるとされ[2]、神社ではこの歌を縁起として重視していることと、人麻呂が文武天皇から下賜された船乗十一面観世音の仏像が大和国の柿本寺という寺にあったのを覚証が迎えて楊柳寺の奥の院に祀ったところ仏像の胎内から『和歌秘弁抄』なる書物1巻が出たとの伝承があることから、和歌を含めた秘事口伝が重んじられるようになった時代に「ほのぼのと」の歌が人麻呂作と信じられそのことが直接の契機となって、神社が創祀された可能性が考えられる[3]。因みに当神社と密接な関係を持つ月照寺の寺伝によれば、覚証は大和国の広安寺なる寺から人麻呂の念持仏であった船乗十一面観世音を勧請して楊柳寺の奥の院に祀ると共に寺号を月照寺と改めたといい、また同寺では「ほのぼのと」の歌に「初生(ほのぼのと) 娑婆世界(あかしがうらの)朝立霧(あさきりに) 四魔滅(しまかくれゆく) 念仏(ふねをしぞおもふ)」との字を充て、各句を発心大円鏡智(生)、修行平等性智(老)、菩薩如観察智(死)、涅槃成行作智(病)、法界体性智(苦)の「生老死病苦」という仏教的摂理で解釈している[3]。
文明8年(1476年)4月に慶範という僧侶が大和添上郡の柿本寺(しほんじ。現・奈良県天理市に寺跡がある)の復興を目論んで行った勧進状に明石浦にも人麻呂の墓所があると記されているので、少なくとも当時までには広く知られる存在であったことがわかるが[4]、天正9年(1581年)には豊臣秀吉が「播州明石の人丸は和歌第一の神仙」であると大明石村の新たに開墾した田地30石を寄進し[5]、江戸時代に入って慶長17年(1612年)にもこれは安堵され[6]、元和5年(1619年)に小笠原忠真が明石の岡に明石城を築城することになると、同7年に替地として現在地である小山の崖上に月照寺と共に移祀され新たに社領40石が寄進された[7]。なお、遷座後は新鎮座地を人丸山と称するようになり(それまでは旧鎮座地を人丸山と称していた)、旧地にも人丸社が残されて明石城の鎮守とされ[3]、これは後に廃絶したものの、人丸塚は本丸跡に現存している。
柿本人麻呂の死去から1,000年に当たるとされた享保8年(1723年)に霊元上皇の執奏により正一位の神階と「柿本大明神」の神号が宣下されるとともに女房奉書が下賜され、命日とされた3月18日に盛大な一千年祭が営まれた。以来同日を例祭日と定め古今伝授や天仁遠波(てにをは)伝授が行われる際には必ず奉告がなされる例となったが[3]、同年6月に霊元上皇が撫物を下付するとともに白銀3枚を寄せて3箇年の祈祷を命じると、桜町、桃園、後桜町天皇も当神社を勅願所と定め、また天皇を始め中宮、上皇、東宮といった皇室から時々の白銀奉納と撫物を下しての祈祷が恒例とされた他[6]、宮廷人や歴代明石藩藩主からも和歌の神としての崇敬を受けた。
祭祀
社殿
末社
文化財
重要文化財
- 後桜町天皇宸翰短籍(45葉)
- 明和4年(1767年)2月、有栖川宮職仁親王から古今伝授を受けた後桜町天皇が報賽の意を込めて奉納した宸翰の短冊。明治34年(1901年)8月2日に古社寺保存法に基づく旧国宝(現行法の重要文化財に相当)の指定を受けた。昭和25年(1950年)、文化財保護法の施行に伴い重要文化財(書跡・典籍)となっている。
- 仁孝天皇宸翰及一座短籍(49葉)
- 天保11年(1840年)11月に古今伝授を受けた仁孝天皇が法楽のために奉納したと思われる短冊。初めの3葉とそれ以外の標題が宸翰。「後桜町天皇宸翰短籍」と同様、明治34年8月2日に古社寺保存法に基づく(現行法の重要文化財に相当)旧国宝に指定。後桜町天皇宸翰短籍と共に皇室以下の柿本大明神に対する崇敬の厚さを物語る。
明石市指定文化財
- 播州明石浦柿本大夫祠堂碑1基
- 柿本人麻呂を敬仰すると共に歌道の隆盛を願った明石藩主松平信之が寛文4年(1664年)10月に建てた人麻呂の顕彰碑。人麻呂の伝記を記す碑文は大学頭林春斎によって撰ばれ、明石市における文化史的意義の深いものとして昭和48年(1973年)2月2日に明石市指定文化財(建造物)となった。台座は亀形であるが、碑文全てを一息で読むとこれが動くと伝わる。
- 絵馬「森狙仙筆 猿の図」1面
- 森狙仙が猿の親子を毛書きで描いた絵馬。文化11年(1814年)に明石郡の丁字屋宗兵衛から奉納された。円山派を脱して独自の画風を形成した狙仙の代表的な作品として、また「文化十一年甲戌三月狙仙筆」の落款と狙仙の印があり、製作年次が明らかなことから、昭和52年2月10日に明石市指定文化財(絵画)となった。
- 石造狛犬1対
境内

境内には境内社や前節文化財の他に、以下のものもある。
- 神木筆柿
- 盲杖桜
- 筑紫国から参拝した盲人が、社頭で「ほのぼのとまこと明石の神ならば 我にも見せよ人丸の塚」と詠じると、神験によって眼が開いたためにそれまで突いていた杖が不要となり、これを地に刺したところ、それが根付いたという桜の木。当地における杖立て伝説を示す。
- 八房梅
- 元禄時代に赤穂浪士の間瀬正明が主君(浅野長矩)の仇討を祈願して植えたという梅。1つの花に8個の実が成ることから名付けられた。もと社前にあった親木の後継樹として境内に移植されたもの(月照寺境内にもあり)。
- 亀の水(亀齢水)
- 人丸山西麓の西鳥居前に湧く地下水。延命長寿の水としての信仰を有する。元禄12年(1699年)、現在の西参道を造営するに際して手水舎として設けられたのが始まりという。現存する手水鉢は享保4年(1719年)に飯塚宣政によって寄進された[8]。
なお、境内は明石海峡を望む「ほのぼのと」の歌に相応しい景観を提供する地であるが、日本標準時子午線(東経135度)が通るのに因んで社前の山腹に明石市立天文科学館が建てられ、その高塔が聳えているため視界が一部遮られている。