汪寿昌

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汪 寿昌(おう じゅしょう、生没年不詳)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えたオングト人。鞏州塩川鎮の出身。

汪寿昌は金朝からモンゴル帝国に降って「鞏昌二十四城」の支配を認められた汪世顕の曽孫、トゥクルクの乱鎮圧・南宋領四川での戦闘で多くの功績を残した汪惟正の息子として生まれた[1]

「便宜副総帥汪公神道碑」などの記述によって大徳年間ころより鞏昌平涼二十四処便宜都総帥の地位にあったことが知られている[2][3]。その後、御史中丞の地位に遷り、このころの汪氏一門の代表者として見なされていたと「隴右汪氏世家勲徳録序」に記されている[4]。更に『至正金陵新志』巻6の記載により、1328年天暦元年)に江南行御史台御史中丞となっていたことが確認される[5]

しかし、天暦年間には大元ウルスを二分する天暦の内乱が勃発し、四川方面においてもナンギャダイが上都派として挙兵した。ナンギャダイの敗退後、内戦で最終的に勝利を治めたジャヤアト・カアンの治世下で汪寿昌は四川行省平章政事に抜擢された[5]1330年至順元年)には雲南においてバイクらの叛乱が長引いていることに加え、烏撒・烏蒙でも叛乱が起こったことを報告し、軍需の増加を要請している[6]

以後も四川行省平章の地位にあったが、1331年(至順2年)・1332年(至順3年)と連続で辞職を申し出たが、朝廷より許されなかったとの記録がある[7][8][9]

鞏昌汪氏

脚注

参考文献

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