汪徳臣

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汪 徳臣(おう とくしん、1222年 - 1259年)は、モンゴル帝国に仕えたオングト人。は舜輔。鞏州塩川鎮の出身。

主にモンゴル帝国第4代皇帝のモンケ・カアンの治世に南宋領四川への侵攻に従事したことで知られる。

生い立ち

汪徳臣は当初金朝に仕えたが、金朝滅亡後にモンゴル帝国に降った汪世顕の息子で、14歳の時に質子(トルカク)としてモンゴル皇族のコデンに差し出された[1]。このころ、コデンの猟に従った際に、一発も矢を外さなかったとの逸話がある。汪世顕が死去した後は、コデンの後押しの下兄の汪忠臣を差し置いて鞏昌等二十四路便宜都総帥の地位を継承し、四川方面への出兵に従事するようになった[2]忠州涪州を攻略する功績を挙げたほか、運山攻めでは投石によって乗馬が死んだ後も徒歩で戦い抜き、外城を陥落させるに至ったとの逸話がある。南宋の将の余玠が興元府に攻め寄せ来た時には、汪徳臣が救援の為赴いてくると聞いただけで余玠は撤退を選んだという[3][4]。またこのころ、漢人世侯の趙天錫に仕える楊奐に「総帥汪義武王世顕神道碑(汪徳臣の父汪世顕の神道碑)」の執筆を執筆している[5]

モンケ治世下の南宋侵攻

新たに即位した第4代皇帝モンケは汪徳臣の名声を聞いて招きだし、その進言を採用すると同時に、印符を与えて四川侵攻に従事するよう命じた。汪徳臣は沔州を拠点に、1251年辛亥)冬に嘉定府を攻めた(嘉定の戦い[6][注 1]。汪徳臣が嘉定府に進出したところ、南宋軍は伏兵による夜襲を仕掛けたものの、汪徳臣はこれを撃退して100名余りを殺して、綿州付近の雲頂山に至った[6]。南宋軍はここにも夜襲をかけたが、この時も汪徳臣軍が勝利を収め、さらに馬漕溝の戦いでは南宋の統制の羅廷鶚を捕虜とした[6]。これらの功績を経て、汪徳臣は更に益昌を守るよう命じられ、四川方面の軍団はみな汪徳臣の指示を仰ぐようになったという。このころ、モンケの弟のクビライが東アジア方面の征服を担当していたため、汪徳臣は益昌での賦税・徭役の免除・屯田の実施などを乞い、クビライはこれを許可している[8]。これを受けて、汪徳臣自身は利州の益昌城の修復と守備を担い、一方で弟の汪良臣に白水(現在の白竜江)で屯田を行わせ、兄の汪忠臣には鞏昌を委ねた[9]。また『元史』地理志によると、1253年癸丑)に汪徳臣が拠点とする利州に都元帥府が設置されたという[10][11]

なおこれ以後、「遠征への従事、前線拠点での駐屯を行う者(征行官)」と「本拠地の鞏昌で残留する軍団を統轄する者(奥魯/アウルク官)」を分担する体制が汪氏の中で確立し、汪忠臣(本拠の鞏昌)と汪徳臣(出向先の利州)、汪惟正汪良臣のように後々まで引き継がれている[12]

1254年甲寅)春には旱害が起こったため、嘉陵江の船は身動きが取れなくなり、諸将は船を放棄して撤退することを主張した[3]。しかし、汪徳臣は「国より四川の平定を命じられた以上、失敗すれば死あるのみで、どうして船を捨て去ることができようか」と述べ、乗馬を全て殺して食料とし、遠征を継続した[3]。そして嘉陵江攻めでは2,000石あまりの食料を獲得し、さらに雲頂山では南宋兵5千を破り、また食料5千石を得た[3]。このころ、水陸の輸送網が復活しつつあり、さらに屯田による食料供給が軌道に乗り出したため、汪徳臣の軍団は危地を脱することができた[3]。同年夏、捕虜とした崔忠・鄭再立らを解放して投降を迫る使者とし、これによって南清が苦竹隘(隆慶府治)を挙げて投降した[13]。一方、同年5月より南宋側では余晦が都統の甘閏を派遣して数万の兵を以て紫金山に築城させており、これを察知した汪徳臣は精鋭を集めて夜襲し、南宋軍は甘閏が身一つで逃れるほどの大敗を喫した[13]。しかし、先に投降した南清がモンケ・カアンに謁見するために北上する間に、苦竹隘では配下の将兵が南清の妻子を殺して南宋側に復帰したため、汪徳臣はこれを撃ってその食糧を奪っている[14]。同年冬に再び来襲してきた南宋兵2万を破り、百艘余りの船を得た[15]

モンケの南宋親征

1258年戊午)からはモンケ・カアンによる南宋親征が始まり、モンケ・カアンが興元府に至ったところで汪徳臣はこれに合流した。このとき、成都府が包囲を受けていたが、汪徳臣は「最初に敵軍を破った者に成都を任せよう」と述べて諸将を派遣し、果たして功を競った諸将により成都府は救われたという[16]。モンケ・カアンは益昌まで至ると改めてこれまでの汪徳臣の戦功を褒め称え、金帯を下賜すると同時に、汪徳臣の功績を讃える石碑を立てたという。その後、急流により渡河の困難な嘉陵江と白水江の合流地点に至ると、汪徳臣はモンケ・カアンの下問を受け、船をつなぎ合わせて橋代わりとし、モンゴル軍の渡河を成功させた。この功績でさらに白金30斤を下賜され、再び石碑が立てられている。その後、一度降りながら再び叛した苦竹隘の再包囲戦では、汪徳臣自ら将兵を率いて奮戦したものの、この戦闘後に汪徳臣は病を得た。そこでモンケ・カアンは「汝の病はみな我が家のため負ったものである」と述べて葡萄酒や玉帯を下賜したため、汪徳臣は泣いてこれに感謝したという。このころ、龍州の守将の王徳新が自ら投降を申し出てきたため、汪徳臣は長寧山まで進出し、守将の王佐を斬ってこれを陥落させた[17]

その後、大獲山を経て閬州まで至ると楊大淵が投降を申し出てきたため、汪徳臣は楊大淵の助命に尽力し、楊大淵は以後モンゴル軍に加わることとなった。モンゴル軍はそこから運山・青居・大梁を次々と陥落させていったが、釣魚山では守将の王堅が頑強に守りを固め、モンゴル軍は5カ月経ってもこれを陥落させることができなかった(釣魚山の戦い)。汪徳臣はある時単騎で城下に至って投降を呼びかけたが、語り終わらない内から投石を受け負傷してしまった。病となった汪徳臣をいたわってモンケ・カアンは丞相の兀真を派遣したが、治療の甲斐無く汪徳臣は38歳にして病死した[7]。後に、1262年中統3年)には隴西公に追封され、忠烈と諡された[18]

息子には汪徳臣の地位を継承した汪惟正、大司徒となった汪惟賢、昭文館大学士となった汪惟和、元帥となった汪惟明、征西都元帥となった汪惟能、権便宜都総帥となった汪惟純ら6人がいた[19]

鞏昌汪氏

脚注

参考文献

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