汪忠臣

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汪 忠臣(おう ちゅうしん、1219年 - 1266年)は、モンゴル帝国に仕えたオングト人。は漢輔。鞏州塩川鎮の出身。

元史』には立伝されていないが『牧庵集』巻16便宜副総帥汪公神道碑にその事蹟が記され、『新元史』には汪公神道碑を元にした列伝が記されている。

父の汪世顕は金朝に仕えて鞏昌一帯を治める人物であったが、金朝の滅亡後、1235年乙未)10月にコデン率いるモンゴル軍に投降した[1]。この時、汪忠臣の弟の汪徳臣は質子(トルカク)としてコデンに差し出され、汪徳臣は父とともにコデンの軍団に属することとなった[2]。これ以後、汪徳臣は四川方面への侵攻に従事し、1241年辛丑)の成都攻めでは、汪忠臣は自ら数10人を斬る活躍ぶりを見せ、成都の攻略に大きく貢献した。

1242年壬寅)にはチベットの畳州を攻略する功績があったが、その翌年の1243年癸卯)に汪世顕が死去した。本来は長男の汪忠臣が地位を継承すべきであったが、コデンは質子(トルカク)として身近にあった汪徳臣を気に入っており、汪忠臣は汪世顕の後継者としての地位を汪徳臣に譲ることとなった。コデンは潔く弟に地位を譲った汪忠臣を称え、鞏昌元帥・知鞏昌府事の地位を授けたという[3]。また、1246年丙午)には四川方面での功績により金符を授けられた[4]。なお、汪忠臣と汪徳臣、汪惟正汪良臣のように汪氏の有力者二人が「遠征への従事、前線拠点での駐屯を行う者(征行官)」と「本拠地の鞏昌で残留する軍団を統轄する者(奥魯/アウルク官)」を分担する体制は元代前半を通して踏襲されている[5]

1252年壬子)には新たに即位したモンケ・カアンにより権都総帥に任じられた。1253年癸丑)からはモンケの弟のクビライが東アジア方面の司令官に任じられ、雲南・大理遠征に従った。しかし、モンケとクビライが遠征の方針を巡って対立すると、遠征計画が改められて1258年戊午)よりモンケ自らが四川方面に親征することとなった。汪忠臣は汪徳臣・汪惟正父子とともにモンケの指揮下に入って四川に侵攻し、剣関・長寧山攻めなどに功績を挙げた[6][7]

しかし四川の湿潤な気候は北方育ちのモンゴル兵を蝕み、汪徳臣は熱病にかかって急死してしまった。汪忠臣は泣きながらも諸将を集め、汪惟正がまだ幼かったことを理由に、諸将から推されて代わりに軍を率いるようになったという[8]

さらに同年秋、モンケもまた病により急死してしまい、弟のクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発した。モンケ直属軍はどちらに味方するかで去就が分かれたが、汪氏一族は早くからクビライ派につき、1260年中統元年)に汪忠臣は副都総帥に任じられた[9]。アリクブケ派との戦闘には弟の汪良臣が派遣されたが、汪忠臣と汪惟正は南宋への備えのために青居山に派遣された[10]。汪忠臣は屯田を行って食料を調達し、練兵に務めて南宋軍を寄せ付けず、帝位継承戦争中に南部国境の安定を保った[10]1262年(中統3年)には以上の功績をたたえて金符を授けられたが、1266年(至元3年)秋には病を発し、48歳にして死去した[11]

汪忠臣の死後、息子の汪惟益は副都総帥の地位を継承し、さらにその息子の汪安昌は懐遠大将軍・便宜都総帥の地位にまで至っている[12]。また、鎮撫帥府の張文煥に嫁いだ娘もいた[13]

鞏昌汪氏

脚注

参考文献

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