汪良臣

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汪 良臣(おう りょうしん、1231年 - 1281年)は、モンゴル帝国に仕えたオングト人。鞏州塩川鎮の出身。

父の汪世顕は金朝に仕えて鞏昌一帯を治める人物で、兄には汪忠臣と、父の地位を継承した汪徳臣らがいた。汪良臣は16・17歳のころから兄の汪徳臣とともに出征に加わるようになり、若くして戦闘のたびに先鋒を勤め功績を遺したため、裨帥・兼便宜都総帥府参議に抜擢された。1253年癸丑)には汪徳臣の推薦を受けて鞏昌帥とされ、配下の兵を率いて白水で屯田したため、四川の南宋軍は敢えてこれに近寄ることがなかったという。モンケ・カアンによる南宋領四川への親征が始まると、鞏昌に戻って遠征軍の後方支援を担当し、権便宜都総帥府事とされた[1]。当初、汪良臣は汪徳臣とともに出征することを望んだが、モンケ・カアンは兵站もまた軽視すべきものでなく、後方支援の責務を果たすことで功績を立てよ、と諭したという。モンケ・カアンの言葉を受けて汪良臣は橋梁・道路の整備、舟・車の造営などに力を尽くし、この功績により黄金・弓矢を下賜された[2]

しかしモンケ・カアンが急死すると後継者の地位をめぐってクビライアリクブケの間で帝位継承戦争が起こり、陝西方面ではアラムダールクンドゥカイらがアリクブケ派として六盤山を拠点に活動を始めた[3]。汪氏一族をはじめ四川・陝西方面に残留する元モンケ配下の部隊は去就を決めかねていたが、廉希憲らの説得によりクビライ派につくことを決意した[4]。そこで汪忠臣と汪惟正(汪徳臣の子)は南宋への備えに派遣され、汪良臣が、鞏昌府・平涼府で徴兵した部隊を率いてクンドゥカイらの討伐を担当することとなった[4]。汪良臣はバチン(八春、Bačin)らと合流すると北上し、チャガタイ家領の山丹州に至ったところでアリクブケ派の軍隊と相対した[4]。廉希憲から正面衝突を避けて時間稼ぎを優先するよう指示されていた汪良臣らは2カ月にわたって対峙を続けたが、1260年中統元年)9月にアラムダールがカラコルムから援軍を引き連れてクンドゥカイと合流し、大軍となったクンドゥカイ軍は汪良臣らに攻撃を仕掛けた[5]。これによってクビライ派の軍団は敗走し、陝西一帯の諸将も動揺したが、オゴデイ家のカダアン・オグルが援軍として到着したことで汪良臣らは態勢を立て直した[5]。両軍は遂に9月21日に山丹州の耀碑谷にて激突し、クビライ派の諸将は右翼軍をカダアンが、中央軍を汪良臣が、左翼軍をバチンが率いるという布陣を取った[5]。この日は非常に風の強い日だったため、汪良臣は軍士に命じて馬を下り刀剣を用いて攻撃させた。汪良臣手ずから敵兵を数十人斬る奮戦ぶりもあってアラムダール軍は劣勢に陥った。更にカダアン軍はアラムダール軍の逃走経路に待ち伏せてこれを大いに破り、遂に主将たるアラムダールとクンドゥカイを殺害した[6]。この捷報を聞いて、クビライは金虎符を汪良臣に下賜し、また権便宜都総帥の地位を授けた[7]

1261年(中統2年)には火里の反乱が起こったが汪良臣によって討伐され、その功績をたたえるため宴会が開かれた。クビライは汪良臣の功を誇らない態度をたたえ、また金鞍・甲冑・弓矢を下賜すると同時に、同僉鞏昌路便宜都総帥府事の地位を授けた。またこのころ、南宋の将軍の昝万寿が戦船200を率いて攻め寄せてくると、汪良臣は兵を伏せた上で南宋軍を撃退し、さらに敗走中の南宋軍を伏兵が襲うことでそのほとんどを捕虜とすることに成功した。1262年(中統3年)には閬蓬広安順慶等路征南都元帥の地位を授かり、このころ釣魚山を力攻めするのは困難なため、付近に武勝城を立てて他との連携を絶つべきであると上奏している。1263年(中統4年)には重慶府を攻め、南宋の将軍の朱禩孫との戦闘が始まると、汪良臣は敵軍に横から攻め入って前後に分断し、城に逃げ込むことを許さず殺し尽くしたという[8]

1269年至元6年)には東川副統軍の地位を授かったが、1271年(至元8年)には汪惟正が汪良臣に代わって前線に赴くことを願ったため、汪良臣は鞏昌に戻った。なお、汪良臣と汪徳臣、汪惟正と汪良臣のように汪氏の有力者二人が「遠征への従事、前線拠点での駐屯を行う者(征行官)」と「本拠地の鞏昌で残留する軍団を統轄する者(奥魯/アウルク官)」を分担する体制は元代前半を通して踏襲されている[9]1272年(至元9年)には再び昭勇大将軍・鞏昌等二十四処便宜都総帥・兼鞏昌路諸軍奥魯総管の地位を授かり、さらに1273年(至元10年)にはクビライに招きだされて鎮国上将軍・枢密副使・西川行枢密院事の地位を授けられた。1274年(至元11年)には嘉定府を攻め、激戦の末に守将の昝万寿を投降に追い込んだ。汪良臣は昝万寿を助命するようはたらきかけることで現地民を安堵させ、さらに長江を下って紫雲城瀘州叙州を攻略し、重慶府にまで至った[10]

1276年(至元13年)、涪州安撫使の楊立や張玨の配下が重慶府の救援に訪れたが、いずれも汪良臣によって撃退されている。1278年(至元15年)春、張玨自らが大軍を率いて来襲したため、汪良臣は体に矢を4本受けるほどの激闘を経てこれを撃退した。その翌日、張玨の配下の趙安が投降したことにより重慶府は陥落して張玨は遁走し、汪良臣は飢えた城民に食糧を分け与えることで人心を安んじたという。この功績により、汪良臣はクビライより召し出されて資善大夫・中書左丞・行四川中書省事の地位を授けられ、白貂裘を下賜された。しかし、汪良臣は成都府まで帰還したところで長年の戦傷による病を発し、このころ新設された安西王相に任命されるも赴任できず、1281年(至元18年)夏に51歳にして死去した。推誠保徳宣力功臣・儀同三司・陝西等処行中書省平章政事・柱国・梁国公を追贈され、忠恵と諡された[11]

息子には雲南諸路行省平章政事となった汪惟勤、保寧等処万戸となった汪惟簡、同知屯田総管府事となった汪惟敬、征西都元帥となった汪惟永、階州同知となった汪惟恭、人匠総管ダルガチとなった汪惟仁、漢軍千戸となった汪惟新ら7人がいた[12]

鞏昌汪氏

脚注

参考文献

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