汪惟能
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汪惟能は金朝からモンゴル帝国に降って「鞏昌二十四城」の支配を認められた汪世顕の孫、帝位継承戦争・南宋領四川での戦闘で多くの功績を残した汪徳臣の息子として生まれた[1]。
汪惟能はもと官軍万戸の地位にあったが、1289年(至元26年)に征西都元帥に任命された[2]。
1306年(大徳10年)には雲南で阿邦龍少が豆温匡虜・普定路の諸蛮と結んで叛乱を起こしたため、汪惟能が叛乱鎮圧に従事することとなった。汪惟能は反乱軍を破って越州まで退却させたものの、反乱軍が降伏を拒んだため戦闘は膠着した。そこで平章のイェスデルが援軍として派遣され、イェスデルと汪惟能は曲靖で合流すると、反乱軍の本拠地に乗り込み、阿邦龍少を捕獲することで叛乱を鎮圧した[3]。