汪惟正
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汪惟正は金朝からモンゴル帝国に降って「鞏昌二十四城」の支配を認められた汪世顕の孫、帝位継承戦争・南宋領四川での戦闘で多くの功績を残した汪良臣の息子として生まれた[1]。
汪惟正は幼いころから聡明なことで知られ、文士たちと古今の治乱について語り合い、また猟に出ては戦での攻守について学んだという。父の汪徳臣が軍中で死去すると、仮に父の爵位を継承し、青居山を守ることとなった。1250年代末、モンケ・カアンが南宋への親征を決めると、腹心の部下であるキタイ・ブカに2万の騎兵とともに六盤山を守らせ、また皇姪のモゲを青居山に派遣した。ところが1259年(己未)にモンケ・カアンが急死すると、帝位を巡って弟のクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発し、旧モンケ軍を指揮するクンドゥカイがアリクブケ側につき、またキタイ・ブカもこれに呼応しようとした。しかし、これを察知した汪惟正はキタイ・ブカを捕縛・処刑してクビライ派につくことを表明し、このころ陝西・四川方面を偵察した趙良弼も汪惟正がクビライ派であることを報告している[2]。この功績により、1260年(中統元年)にクビライが皇帝位に即位すると、改めて正式に父の地位を認められた[3]。
1261年(中統2年)に入朝すると、甲冑・宝鞍を下賜された。1262年(中統3年)、命を受けて鞏昌に戻り、このころ起こったクドゥの反乱鎮圧に従事した。汪惟正は戦闘を避けてクドゥ軍が消耗するのを待つ方策を取り、2カ月経って反乱軍の食料が尽きたことを知ると、始めて攻勢に転じて勝利を収めた。クドゥが30名の部下を派遣して降伏を申し出てくると、その内10名を帰してクドゥ自らが出頭するよう要求し、最後にはクドゥを謀殺することで反乱を平定するに至った[4]。
1270年(至元7年)、南宋は武勝軍を立ててモンゴル軍に攻撃を仕掛けようと図ったが、これに対して汪惟正は嘉陵江に柵を作り、水上の通行を制限することで南宋軍を寄せ付けなかった。1272年(至元9年)には兵を率いて忠州・涪州に出兵し、城塞7を破り、守将6人捕らえて1,600戸を降らせる功績を挙げた。その後、南宋侵攻の最大の障害となっていた襄陽城が陥落すると、「四川でいまだ降らないのは数城のみです。今こそ力をあわせて南宋の根拠地(長江下流域)に攻め込むべきであり、願わくば四川の兵を率いて長江を下りバヤンの軍団と合流することを請います」とクビライに上奏した。これに対し、クビライは「四川の征服もまた重大事であり、卿をおいて他の誰に託すことができようか。四川を平定することができれば、その功績はバヤンのそれに劣るものではない」と述べ、両川枢密院の重慶包囲を救援するよう命じた。そこで汪惟正は洪崖門を奪取し、南宋の将の何統制を捕虜とする功績を挙げた。1273年(至元10年)、マンガラが安西王に封ぜられ、陝西・四川方面を統べるようになると、汪惟正は四川の最前線から召還されて本拠に帰還した[5][6]。
1277年(至元14年)冬には安西王マンガラがカイドゥとの戦いのため出征した隙をついて、トゥクルクが六盤山で反乱を起こした[7]。安西王相府はベステイ(別速帯)を討伐軍の司令官、汪惟正をその副官として派遣したが、ベステイは実戦経験がなかったため実質的に汪惟正が軍団の指揮を執ったという。汪惟正は平涼まで至ると鞏昌の精鋭兵80名をひきつれ、六盤山にまで進軍した。トゥクルクは西山を拠点としていたのに対し、汪惟正は安西王国軍を左右翼に分けて攻撃を仕掛けた。汪惟正はトゥクルク軍から1里あまりの距離で配下の兵に下馬して弓を構えるよう命じ、トゥクルク軍の騎兵が接近すると、「必中と見てより放て」と指示した。この一斉射撃により、トゥクルク軍の騎兵は3分の1が倒れ、残りは敗走し、汪惟正はこれを追撃して蕭河まで至った。汪惟正はさらに兵を進めて叛将の燕只哥を捕虜とし、最後にはトゥクルクも捕虜とするに至った。安西王マンガラが帰還すると、汪惟正はこれえを迎え、マンガラは汪惟正の功績をたたえてその翌日に大宴会を開いた。宴会の場でマンガラは汪惟正に金尊杯・貂裘を授け、また王妃は汪惟正の母のために珠絡帽衣を下賜して「汝の母はまことに福人である」と語ったという。またクビライも汪惟正の功績を知って入朝するよう命じ、白金五千両・錦衣一襲を下賜すると同時に、金吾衛上将軍・開成路宣慰使の地位を授けた[8]。
さらに、1280年(至元17年)には龍虎衛上将軍・中書左丞・行秦蜀中書省事の地位に遷った。このころ、秦蜀行省はその名の通り陝西・四川一帯を統べていたが、中心は陝西の長安にあり四川からは遠かったため、汪惟正が命を受けて分省を統治した。1283年(至元20年)には資徳大夫の地位に進み、1285年(至元22年)には陝西行中書省左丞に改められた。しかしこの年、上都に滞在中のクビライの下に入覲した後に病を発し、華州まで戻った所で44歳にして死去した[9]。