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波留敏夫

日本の野球指導者、元プロ選手 From Wikipedia, the free encyclopedia

波留 敏夫(はる としお、1970年5月25日 - )は、京都府京都市東山区(現:山科区)出身[注 1]の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投右打)、コーチ。

国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1970-05-25) 1970年5月25日(56歳)
身長
体重
174 cm
75 kg
概要 オリックス・バファローズ ヘッドコーチ #81, 基本情報 ...
波留 敏夫
オリックス・バファローズ ヘッドコーチ #81
中日ドラゴンズコーチ時代
2016年8月12日 阪神鳴尾浜球場にて。
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市東山区(現:山科区)
生年月日 (1970-05-25) 1970年5月25日(56歳)
身長
体重
174 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手、遊撃手、三塁手
プロ入り 1993年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 1994年7月3日
最終出場 2004年5月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
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現役時代は横浜ベイスターズの上位打線で闘志を剥き出しにしたプレーを見せ、「ハマの核弾頭」[1]「突貫小僧」の愛称を持った[2]。

経歴

プロ入り前

大谷高等学校では2年秋の府大会準決勝で伊藤智仁が先発した花園高に勝つも決勝で平安高に延長10回の末に惜敗、2位決定戦では花園高の伊藤との再戦に敗れて近畿大会へは進出できず。社会人野球の熊谷組へ入部。1年目秋の日本選手権には先発出場[3]。1992年の都市対抗野球で準優勝。翌年も出場して優秀選手賞獲得[4]。同年は社会人ベストナイン遊撃手に選出[4]。

チームの解散が決まっており、プロ入りを表明していたところ1993年度ドラフト会議にて横浜ベイスターズから2位指名(逆指名)を受けて入団。担当スカウトは松岡功祐[5]。

横浜時代

1994年は内野手として登録され、シーズン中盤より一軍に定着。終盤には怪我で戦線離脱した進藤達哉に代わり遊撃手として多く出場する。内野では三塁手も守ったほか、中堅手も多く守り、最終的には53試合に出場した。

1995年は中堅手として多く出場。初めて規定打席に到達し、打率三割を記録。調子や相手先発投手の利き腕に合わせ、同い年の石井琢朗と入れ替わりで1、2番打者を務めた。

1996年は、開幕から1番打者に固定されるなど好調だったが、徐々に調子を落とす。鈴木尚典、佐伯貴弘らとのし烈な外野のレギュラー争いに勝つことができず、規定打席未達に終わる。

1997年は開幕から好調を維持し、前年から石井が1番打者に定着したことにより、2番打者に固定された。打率.295の好成績を残し、自身二度目の規定打席到達を果たすも、同年オフの11月にプロ野球脱税事件への関与が発覚。

1998年の開幕から6週間の出場停止処分を受ける。横浜球団独自の方針で謹慎中は二軍戦にも出られなかったが、5月16日の中日ドラゴンズ戦で1番・中堅手で復帰する。調整不足からしばらく調子が出なかったが、7月には月間MVPを受賞するなど調子を取り戻し、マシンガン打線の2番打者として横浜の38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献した[注 2]。

1999年は打率.298を記録し、2番打者ながらキャリア・ハイとなる15本塁打、70打点、21盗塁を記録した。

2000年も開幕から好調をキープするも、足の怪我で戦線を離脱。以後閉幕まで一軍復帰できず60試合の出場に留まった。同年シーズン中西武の大友進が守備でフェンス際の打球に突っ込んで右肩を亜脱臼して関節唇を損傷したことがあった同年オフに監督の東尾修、ヘッド兼打撃コーチの佐々木恭介、作戦兼守備走塁コーチの伊原春樹がミーティングを行いそこで東尾が「波留が欲しい」と言い出し、東尾に「森さんに聞いてみてくれませんか」と乞われた伊原は前西武監督で新監督の森祇晶に電話し交換相手として潮崎哲也と豊田清を考えていると伝えたら「OK」の返事だったが独断で決められないから球団に聞いたら「NO」と言われこのトレードは実現しなかった[6]。

2001年には背番号を1へ変更。森の方針により金城龍彦と入れ替わる形で三塁手に再転向するも、シーズン序盤に種田仁、山田博士とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍[注 3]。

バイプレーヤー的な存在の内野手と先発中継ぎの両方ができる投手を求めていた森監督が、中日の星野仙一監督に無理を承知で直談判し、異例のシーズン中の同一リーグ間でのトレードが実現した[7]。なお、このトレードはシーズン途中での年俸1億円の選手の初のトレード例となった。

中日時代

2001年は8月16日の読売ジャイアンツ戦(ナゴヤドーム)で移籍後初本塁打となる[8]代打満塁本塁打を放つ[9]活躍があったが、故障の影響で打率.240、1本塁打、20打点と成績は低迷[10]。

2002年11月15日、酒井忠晴とのトレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍することが発表された[11][12]。推定年俸7000万円(2000万円減)で、背番号は8[13]。

ロッテ時代

2003年も打率1割台と不振が続いた。

2004年の西武ライオンズとの開幕戦(西武ドーム)で1番・中堅手として開幕スタメンを果たす。しかし、不振を脱することはできず、オフに球団から戦力外通告を受け、その後現役を引退した。

現役引退後

解説者時代

2005年は主にJ SPORTS、スカイ・A、テレビ神奈川の解説者として活動。また、社会人野球・クラブチームの熊球クラブに外野手として所属。

横浜・DeNAコーチ時代

2006年は古巣・横浜の一軍外野守備走塁コーチに就任。背番号は71。

2007年から2008年までは一軍打撃コーチを務めた。

2009年は一軍外野守備走塁コーチに復帰。

2010年は再び一軍打撃コーチを務めたが、前年度から2年連続となるチーム打率12球団最下位を記録するなど、打線も低迷した。

2011年から2012年までは二軍打撃コーチを務めた。

2013年は三度一軍打撃コーチを務めたが、7月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦前にチーム状況の認識を巡って池田純球団社長と口論になったと報じられた[14]。10月9日、今シーズン限りで退団することが発表された[15]。

中日コーチ時代

2014年からは中日の一軍外野守備走塁打撃コーチに就任[16]。背番号は横浜・DeNAコーチ時代と同じ71。山崎武司によると、同年から選手兼任監督に就任した谷繁元信(横浜、中日時代の同僚)が唯一連れてきたコーチが同じ年の波留だという[17]。

2016年は二軍打撃コーチを務めた。

2017年から2019年までは一軍打撃コーチを務め、京田陽太の1番定着を手助けした[18]。

2020年からは再び二軍打撃コーチを務め[19]、2022年は背番号を81に変更。5月23日、開幕2か月にして中村紀洋と入れ替わりで再び一軍打撃コーチに配置転換された[20][21]が、6月12日の北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム:セ・パ交流戦)では5回表の攻撃前の円陣で「目覚ませもっとお前ら!いつまで甘えてやってんねん野球!その気でやらんかいアホ!」と発破をかけたが、結局その後も得点を上げることはできず、22イニング無得点となり、チームも6連敗を喫した[22]。10月13日、今シーズン限りで退団することが発表された[23]。

オリックスコーチ時代

2023年からはオリックスの育成チーフコーチに就任[24]。背番号は90。

2025年からは背番号を中日コーチ時代の2022年に着けていた81に変更。同年は小林宏と入れ替わりで二軍監督に就任[25]。

2026年からはヘッドコーチに昇格。

選手としての特徴・人物

社会人の熊谷組1年目にドラフト会議で先輩の佐藤和弘が1位指名を受けて、オリックス・上田利治監督から合宿所に指名挨拶の電話があった際に取り次いだ。この時、佐藤の愉快な対応がテレビのスポーツニュース等で話題になった。

俊足巧打と闘志満々なプレーが持ち味[1]。1998年にはバントをしない攻撃的で勝負強い2番打者として横浜の38年ぶりの日本一に大きく貢献した[26][27]。

現役時代の1999年(当時は横浜に在籍)、グラブは6本分指が入るものを使っていたと話していたことがある。当時は主に外野手をしていたこともあり、「内野手をやっていたので、どうしても中指と人差し指を重点的に使ってしまうが、それだと外野手のグラブとしてバランスが良くない。そこで小指の所に指が入る袋を二つ作ってもらって、そこで小指と薬指が使えるようにしました」ということだったという[28]。

ロッテへの移籍直後、マリーンズ応援団が波留に対して語呂合わせで日本童謡の「春が来た」の替え歌を応援歌にしたところ、これを見た波留が激怒し、別の曲に変更となった[29]。

2007年から2008年と2011年から2022年までは打撃コーチとして相手投手との間を重要視した指導を主に行っていた[30]。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
年

度
球

団
試

合
打

席
打

数
得

点
安

打
二
塁
打
三
塁
打
本
塁
打
塁

打
打

点
盗

塁
盗
塁
死
犠

打
犠

飛
四

球
敬

遠
死

球
三

振
併
殺
打
打

率
出
塁
率
長
打
率
O
P
S
1994 横浜 5318716826501223751073101305331.298.366.446.812
1995 1004343785911714251502998724314553.310.384.397.781
1996 1143733323288142211221451202405574.265.324.337.661
1997 1275735028914822382004116823134013687.295.355.398.753
1998 106487428691172312148391221143915575.273.338.346.684
1999 13060956895169315152557021514121058011.298.328.449.777
2000 602372193066140810417341113033110.301.347.475.822
2001 1324211310040002010040.143.182.190.372
中日 9230727521668017720231521312378.240.277.280.557
'01計 10533129622699018120231721412418.233.271.274.544
2002 3994875195002470040300162.218.244.276.520
2003 ロッテ 501441111522400265111021902226.198.321.234.555
2004 29614957200971131800161.143.259.184.442
通算:11年 913353031384478721501544118426676401031423134447658.278.335.377.712
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  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

  • 月間MVP:1回(野手部門:1998年7月)
  • JA全農Go・Go賞:2回(最多二・三塁打賞:1999年8月 強肩賞:1999年9月)

記録

初記録
その他の記録

背番号

  • 2(1994年 - 2000年)
  • 1(2001年 - 同年途中)
  • 8(2001年途中 - 2004年)
  • 71(2006年 - 2021年)
  • 81(2022年、2025年 - )
  • 90(2023年 - 2024年)

脚注

関連項目

外部リンク

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