洞院家
鎌倉時代から室町時代にかけて存続した公家
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成立と隆盛
家門の継承と家学
洞院家に伝来した部類記には、家祖実雄の時代にまで遡るものがある。東山御文庫所蔵の『譲位部類記』(勅封157-49)は現在一巻として伝わるが、前半部と後半部では料紙の法量や墨界、紙背文書の有無などが異なり、本来は別々の史料であったと考えられている。両部分の冒頭にあたる第1紙・第5紙の裏打紙背には、それぞれ整理識別用とみられる「四十八」「十九」の番号が記され、いずれも前欠となった後のある時点で現在の冒頭部分が独立した史料の始まりとして扱われていたことがうかがえる。現在の外題「譲位記」も、両者が接合された後に付されたものと考えられている[2]。また、紙背の紙継目に捺された円黒印や裏打紙背の整理番号は洞院家旧蔵本にしばしばみられる特徴であり、『譲位部類記』は『洞院家廿巻部類』の原写本と考えられている[3]。
前半部は、鳥羽天皇・崇徳天皇・後白河天皇・二条天皇が譲位後に行った諸儀を古記録から抜き書きしたもので、尊号や御随身の宣下、院司補任、各種の「始」などを簡略に記す。記述が簡略であることから、部類記というよりも、譲位後諸儀の日程を参照するための勘例に近い性格を持つとされる。所引の古記録には『朝隆卿記』『顕時卿記』『重方卿記』などがあり、記主を確認できるものはいずれも勧修寺流藤原氏の日記で、現在ではすべて散逸している。とりわけ鳥羽・崇徳両天皇の譲位前後は現存する古記録がほとんどなく、これらの逸文は貴重な記録となっている[3]。後半部は後三条天皇の譲位後諸儀に関する藤原為房の日記『為房卿記』の部類記で、紙背文書から寛元4年(1246年)をさほど下らない時期に実雄の手によって編纂されたものと推定されている[3]。
後半部は『洞院家廿巻部類』にも収められ、『為房卿記』の日次記として複数の新写本も伝わるが、東山御文庫本は当該部分について現存する唯一の古写本とみられている。他本にみえない記述を含むほか、新写本の脱文や文章の混乱を訂正できる箇所も少なくない[4]。
公賢の孫公定は日記を記すとともに、後に『尊卑分脈』と呼ばれる系図集を編纂した。公賢らが蓄積した朝儀・故実に関する知識と記録は、歴代当主によって家記・家文書として継承された[1]。
こうした記録の集積は、公定の時代にも部類記の編纂に利用された。応安4年(1371年)の後光厳天皇譲位に際し、それまで洞院家に集積されていた譲位関係の記録類に対して、公定が切貼・加筆などの整理・編纂を行うことで『脱屣部類記』が成立したとされる。現存する同書には公定の活動時期を大きく遡って書写された巻もあり、各巻の書写年代には相当の幅がある[5]。
『譲位部類記』後半部の『為房卿記』は、本来『脱屣部類記』を構成した一巻であった可能性が指摘されている。現存する『脱屣部類記』は二条天皇以前の譲位関係記録を欠くが、本来はそれ以前の天皇に関する巻も存在したと想定されている。また、『譲位部類記』前半部のうち「六条院顕時記」から始まる二条天皇譲位の記事は『脱屣部類記』にも対応する記述があり、両者を比較すると『譲位部類記』側はその省略文となっている。このことから、前半部は歴代天皇の譲位後諸儀の日程を簡便に参照するため、『脱屣部類記』を参照して記述を抄出したものと推定されている[6]。
9代実熙は『名目鈔』など有職故実に関する著述を残した。また、箏に堪能であり、後花園天皇に箏の灌頂を授けたことが知られる[1]。
衰退と断絶
応安4年(1371年)に公定へ家門・家領が一括して安堵された際の後光厳天皇綸旨によれば、当時の洞院家領は左馬寮・丹後国各半分、尾張国瀬部御厨、遠江国都田御厨などから構成されていた。左馬寮領と、鎌倉時代以来の知行国であった丹後国が家領の中心を占めた。都田御厨は、応永7年(1400年)に押領人を退けて洞院家雑掌へ返付するよう命じた室町幕府管領奉御教書が出されたのを最後に所見がなく、早い時期に不知行となった可能性が高い。一方、丹後国衙領と京都北辺の芝・柳原の屋地には、応仁・文明の乱後にも洞院家領として一定の実効があったとみられる[7]。
家領の中でも左馬寮領は、遠隔地の公家領が次第に不知行化した室町時代に重要性を増した。洞院家では、実雄が正元2年(1260年)に後嵯峨法皇から左馬寮領を拝領し、文永10年(1273年)に子の公守へ譲ったことを知行の由緒としていた。しかし、その後の管領権は洞院家・西園寺家・今出川家の間を移動しており、洞院家が一貫して知行していたわけではなかった。洞院家は康永2年(1343年)に左馬寮領を回復したが、永徳2年(1382年)、公定が足利義満の意に背いたことで没収され、後円融上皇から今出川公直へ与えられた[8]。
実熙は幼少期、家領収入の不足から家例どおりに昇進して出仕を続けることは困難であると考え、12歳で出家することを予定していたという。しかし、応永27年(1420年)に足利義持から瀬部御厨を返付され、翌年には今出川公行・公富が相次いで死去して今出川家が断絶に近い状態となったため、後小松上皇から左馬寮領の半分を与えられた。実熙はこれを受けて出家を取りやめ、朝廷への奉公を続けた[9]。
左馬寮領は永享6年(1434年)に再び失われた。同年、将軍足利義教の側妾であった三条上臈が物の怪に憑かれた際、その原因が同じく義教の側妾であった西御方、すなわち実熙の姉による呪詛であるとされ、西御方は室町殿から放逐された。父の洞院満季も左馬寮領を没収され、同領は今出川菊寿丸、のちの今出川教季に与えられた。さらに、嘉吉元年(1441年)に義教が殺害されると、瀬部御厨も混乱に乗じた守護被官によって押領され、洞院家は再び主要な家領からの収入を失った[9]。
東山御文庫に『洞院家今出川家相論之事』の名で伝わる仮名消息について、末柄は、実熙が女官を形式上の宛所としながら、実質的には後花園天皇へ訴えた文書と推定している。『洞院家今出川家相論之事』という名称は江戸時代に付された附札によるもので、この消息自体は洞院家と今出川家の相論過程で作成されたものではないとされる[10][11]。
消息によれば、実熙の時代の洞院家の年収は300ないし400貫文を超えず、消息が作成される以前の8、9年間は、その半分または3分の1しか収納できない状態が続いていた。瀬部御厨から得られる収入も年額100貫文に満たなかったが、実熙は、これを失えば家僕を扶養することさえ困難になるとして返付を求めた[12]。
実熙は、他家も同様に困窮しているとの反論を予想しつつ、洞院家は「大臣の大将経歴の家」、すなわち大臣・近衛大将を歴任する清華家であり、小番を勤める大臣家以下の「番々の人々」よりも、朝廷への奉公と家格に応じた体面の維持に大きな負担を負っていると訴えた。現状のままでは「番々の輩の如く成り下」ることになるとの危機感を示しており、この訴えは、家門を相承して奉公を継続するため、子の公数の将来を案じて行われたものと解されている[13]。
瀬部御厨に関する実熙の訴えがどのように扱われたかは明らかでないが、『吉田文書』には、長禄2年(1458年)とする貼紙を伴う足利義政の御内書があり、瀬部御厨を従来どおり知行するよう命じている。充所は失われているものの、末柄は、本来「洞院殿」と記されていた可能性が高く、実熙の消息が作成されてから数年以内に瀬部御厨の返付が実現したとみている[13]。
公数は洞院家で初めて二位中将を経歴し[1]、寛正4年(1463年)には23歳で叙位・除目の執筆を務めた[13]。しかし、応仁・文明の乱が始まると、洞院家の邸宅は実相院とともに細川方の要地として接収され、公数は邸第を退去させられた[14]。尾張国にあった瀬部御厨では斯波義敏・義廉の抗争、丹後国衙領では同国守護一色義直と若狭守護武田信賢らの戦闘、芝・柳原の屋地では京都市中の戦乱によって、それぞれ収取が困難になったと考えられる[15]。
文明2年(1470年)5月、公数は左近衛大将・権大納言をともに辞した。近衛大将となった者が大納言と大将を兼ねたまま大臣への昇進を待つのが通例であったため、これは異例の辞任であった。文明6年(1474年)、甘露寺親長は、公数が両職を辞した先例について「乱中窮困之上、無力事也」と記録している。三条西実隆も、同じく窮困によって右近衛大将・権大納言を辞した転法輪三条公敦の事例と公数の辞任を並べて記しており、公数の辞任は同時代にも戦乱下の経済的困窮と結び付けて理解されていた[14]。
公数は文明8年(1476年)2月、大臣へ昇進しないまま36歳で出家した。公数の出家を伝えるのは『公卿補任』であり、同月の記事が現存する『実隆公記』『親長卿記』『言国卿記』『長興宿禰記』には出家に関する記事がないため、出家の直接的な経緯や本人の説明は確認できない[1]。末柄は、応仁・文明の乱によって家領収入の回復が困難となり、清華家としての家格を維持できる見通しを失った公数が、後嗣のないまま宮廷社会から離れ、洞院家の断絶を図ったものと推定している[15]。井原今朝男も、室町期には禁裏・室町殿・摂関家に近習・近臣や家司として仕える中下級公家が政治的・経済的基盤を確保する一方、五摂家・清華家などの上級公家から没落・廃絶する家が生じたとし、公数の出家をその一例に挙げている[16]。
公数は出家後、洞院家に伝来した記録・文書類を各所へ売却した。文明11年(1479年)4月、転法輪三条公敦は、後に『尊卑分脈』と呼ばれる洞院家伝来の系図を入手した際、公数について「放埒仁也」と評し、「一流既断絶分云々」「記録・抄物等悉沽却」「可洗耳者也」と記した[17][注釈 1]。公敦と公数は年齢が近く、官位の昇進でも先後を争っており、公数が左近衛大将に任じられた日には公敦も右近衛大将に任じられていた。公敦の識語は、かつて官位の昇進を争った相手に対する辛辣な評価でもあった[17]。
『尊卑分脈』の洞院家系図にある公数の条にも「出家、文書・記録方々散失、断絶了」と記されている。当時の公家社会では、本人が出家して実子による継承が途絶えても、養子を迎えることで家門を相承することは可能であった。末柄は、家伝の記録・文書類の大半が散逸すれば、経済的困窮が慢性化していた時期に家を維持する支柱を欠き、断絶を招く可能性が高かったと指摘している。公数に対する非難も、後嗣のないまま出家したこと以上に、家門を支える記録・文書を売却したことへ向けられていたとみられる[18]。
文明14年(1482年)12月、右大臣西園寺実遠は次男を洞院家の後継者とすることを後土御門天皇に申請し、許可を得た。実遠の次男は叙爵して公連と名乗った。当時10歳ほどで、公数の養子ではなく、約20年前に死去していた実熙の養子という形式で洞院家を相続した[18]。
翌文明15年(1483年)3月、公数は洞院家を代表する家記であった『園太暦』を中院通秀に譲渡した。通秀の『十輪院内府記』によれば、代価は千余疋、すなわち10貫文余で、同月24日に引き渡された。のちに通秀の子通世が『園太暦』を売却しようとした際、三条西実隆は値下げ後の8貫文さえ用意できず、禁裏による買い上げを斡旋しており、『園太暦』が当時の公家にとって高額な書物であったことがわかる[19]。
中院家には、のちに『洞院家記』『洞院家廿巻部類』『洞院家八巻部類』などと呼ばれる洞院家旧蔵の記録・文書類が伝来した。末柄は、中院通勝の識語や中院家の日記目録から、通秀が公数から『園太暦』以外にも多数の洞院家旧蔵書を取得したと推定している[20][21]。
甘露寺親長は、通秀から『園太暦』を借りて抄出した『園太記』の奥書に、「園太暦記事、不慮中院前内府入道伝領、百二十余巻、左大将入道公数卿出家之後、申断絶一流之由、文書・記録売却方々、其内也」と記している。末柄は、この記述と『園太暦』の譲渡先などから、公数による家記・家文書の売却には生活費を得る目的に加え、洞院家の文庫を解体して家の相承を困難にする意図があったと解している。また、洞院家の再興を図っていた実遠・公連父子ではなく通秀へ『園太暦』を譲ったことについても、公数が洞院家の再興を望まなかったことを示すと推定している[22]。
ただし、公数は実遠・公連父子に対し、洞院家領に関する綸旨・院宣などの重書を譲渡していた。家記・家文書の多くを他家へ売却する一方、家領に関する文書は公連へ移したことになる。洞院家領では不知行化が進み、実際の収取を維持または回復するには幕府や朝廷への訴訟を必要とする状況にあったが、丹後国衙領や京都の芝・柳原の屋地など、すべての所領が一律に実効を失っていたわけではなかった[10][23]。末柄は、天皇から洞院家の相続を認められた公連に重書を譲渡することは、公数にとって合理的な選択であったとし、西園寺家が公数の生活を扶助することを条件に重書を受け取った可能性を指摘している[23]。
公連は権中納言へ昇進することなく、文亀元年(1501年)4月、30歳を迎える前に三位中将のまま出家した。その後は公連の甥で、西園寺公藤の次男であった実賢が洞院家を継いだが、10年に満たないうちに史料上から消息が確認できなくなった。『尊卑分脈』の公数条には、実遠が相続を申請して一流を継続させたものの「但有名無実」と記されており、家記・家文書が散逸した後の再興は名目的なものに終わった[24]。
公数によって売却された洞院家旧蔵の記録・文書類は中院家などへ伝わり、応仁・文明の乱後には三条西実隆らによる古典や有職故実の研究にも利用された。洞院家の文庫は家門の断絶とともに解体されたが、その旧蔵書は他家の文庫へ移されることで伝来した[24]。