白鬚神社
滋賀県高島市にある神社
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祭神
歴史
創建

社伝によると、垂仁天皇25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるとする。それにより、当社は近江最古の大社であるとしている(一説に再建)[7]。また白鳳3年(675年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える[7]。
後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある[5]。
当社の周囲には、背後の山中に横穴式石室(現・末社岩戸社)が残るほか、山頂には磐座と古墳群が残っている[5]。
白鬚信仰の多く分布する近江国や武蔵国北部・筑前国には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという説もある[8][9][10][11][12][13]
概史
国史では貞観7年(865年)に「比良神」が従四位下の神階を賜ったとの記載があり、この「比良神」が当社にあたるとされる[2]。ただし『延喜式』神名帳には記載されていないため、当社はいわゆる国史見在社にあたる。
弘安3年(1280年)の比良庄の絵図では「白ヒゲ大明神」と見えるほか(「白鬚」の初出[5])、『太平記』巻18では「白鬚明神」という記載も見える[2]。また、観阿弥の作である謡曲『白鬚』では当社が舞台とされている[7]。
天文8年(1539年)には六角義賢によって境内社の天照皇大神宮、豊受大神宮、八幡三所社が創建されている[14]。
豊臣秀吉の遺命により[15]、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼によって片桐且元を奉行として本殿(重要文化財)が再建されたほか[16]、天照皇大神宮(高島市指定有形文化財)、豊受大神宮(高島市指定有形文化財)、八幡三所社(高島市指定有形文化財)も再建され[14]、慶長年間(1596年 - 1615年)に他の摂末社の造営などの境内の整備が行われた[17]。また、社領1万石が寄進されている[18]。
分霊社は判明するだけで150社を数え、古くから皇室、武将等の崇敬は厚く北海道、九州、隠岐まで分霊社が奉斎されている[18]。
江戸時代になって社領は減らされたが、慶安元年(1648年)には朱印地として100石を受け、のちには189石余となったという[2]。
明治に入り、1876年(明治9年)に近代社格制度において郷社に列し、1922年(大正11年)に県社に昇格した。1908年(明治41年)には神饌幣帛料供進社に指定されている[18]。
当社の永代常夜灯は江戸時代に京都の近江屋藤兵衛により奉納されたもので、かつては湖岸に立って沖往く舟の灯台としての役割を果たしていた[19]。
神階
湖中大鳥居
大鳥居は琵琶湖の中に建てられており、当社のシンボルとなっている。鳥居について古くは弘安3年(1280年)の絵図には陸上に描かれているが、その後の琵琶湖の水位上昇に伴い水中に立つようになったと伝える[5]。室町時代の屏風絵「近江名所図」や、江戸時代に描かれた当社の縁起絵巻にも湖中の鳥居が描かれている[20]。
『江源武鑑』には、永禄5年(1562年)9月に湖中から華表が顕出したという記事がある。これを傍証する史料はないが、『為広越後下向日記』には「鳥井(鳥居)湖ニツクリカクル」とあり、延徳3年(1491年)にはすでに鳥居は湖中につくられ隠れているという伝承が存在したことがわかる。しかし、鳥居が湖中に建つ理由は諸説あるが、実際に立っていたという証拠はない[20]。
その伝説に基づいて1937年(昭和12年)に大阪市東区(現・中央区)道修町の薬問屋・小西久兵衛によって鳥居の寄進がなされ、琵琶湖の中に建立された。1981年(昭和56年)には現在の鳥居が再建された[20]。
境内と交通事故
当社の境内と大鳥居の間には国道161号が走っており、国道を渡って琵琶湖の間際に行くことは危険である[15]。
しかし、大鳥居を見物するために交通量の多い国道161号を横断する参拝者があとをたたず、横断者が直接自動車に轢かれたり、歩行者に気が付き減速した自動車に後続車が追突したりするといった交通事故が相次いで発生している。神社側では国道の横断禁止を呼びかける一方、2021年(令和3年)12月に地元の高島ロータリークラブの寄贈によって神社境内の社務所前に高さ3メートルの展望台「藍湖白鬚台」が設置されるなど対策が取られているが[21][22]、展望台を設置した翌日には早くも横断中の歩行者が轢かれる事故が起きている[23]。
境内
境内は、慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼によって整備が行われている。
- 本殿(重要文化財) - 棟札等から慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の命により片桐且元を奉行として播磨国の大工の手で建てられたとされる。間口三間・奥行三間の入母屋造で向拝一間を付し、屋根は檜皮葺である。向拝の手挟・蟇股等に桃山時代の特徴を示している[16]。明治時代の拝殿造営・接続に伴い、向拝の軒先は切り縮められて権現造のような複合社殿様式となり、複雑な屋根となった[15]。その際に屋根も杮葺から檜皮葺に改められている。この本殿のほか、境内社4殿も同時期の慶長期の造営になる[18][17]。
- 拝殿 - 1879年(明治12年)再建[16]。間口三間三尺・奥行二間の四棟造[17][18]。
- 絵馬殿 - 旧拝殿。寛永元年(1624年)の大溝藩主の分部光信による造営。現在は絵馬殿として使用されている[17]。
- 社務所(国登録有形文化財) - 1933年(昭和8年)の造営。書院造で中世を思わせる造りであるとして、国の登録有形文化財に登録されている。当時の粋を集めた建造物で、昭和の文化財としての価値が高い[24]。
- 展望台「藍湖白鬚台」 - 琵琶湖中の大鳥居を見るための展望台[15]。
- 池
- 手水舎 - 1987年(昭和62年)4月に白鬚神社延齢会によって再建。手水鉢は1881年(明治14年)9月に京都延齢社によって寄進されたもの[25]。
摂末社
境内社として11社が鎮座する[26]。
- 若宮神社(高島市指定有形文化財) - 祭神:太田命(猿田彦命の別名または幼名)。慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の命により片桐且元を奉行として再建。2000年(平成12年)10月修復[27]。一間社流造、杮葺[17]。
上の宮
本殿裏の石段上にある若宮神社を除く10社は「上の宮」と総称される[14]。
- 天照皇大神宮(高島市指定有形文化財) - 祭神:天照大神。内宮。慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の命により片桐且元を奉行として再建。2001年(平成13年)修復[14]。
- 豊受大神宮(高島市指定有形文化財) - 祭神:豊受姫命。外宮。慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の命により片桐且元を奉行として再建。2002年(平成14年)修復[14]。
- 八幡三所社(高島市指定有形文化財) - 八幡神社、加茂神社、高良神社の三社相殿。慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の命により片桐且元を奉行として再建[14]。
- 天満神社 - 祭神:菅原道真。以前は八幡三社の南軒下にあったが、1999年(平成11年)に現在地に移転・修復[14]。
- 波除稲荷社 - 2005年(平成17年)修復[14]。
- 寿老神社 - 祭神:寿老神。1988年(昭和63年)に西近江七福神巡りの一つになったのを記念して建立[14]。
- 鳴子弁財天社 - 祭神:弁財天。昭和初年から社務所や宮司宅で奉斎していたが、大阪の信者によって社殿が建立寄進された[14]。
- 岩戸社 - 境内の一番上にある古墳の石室前に祠が建てられ、天岩戸として祀られている[14]。
- 絵馬殿(旧拝殿)
- 境内入り口
- 皇大神宮(内宮)(高島市指定有形文化財)
- 豊受大神宮(外宮)(高島市指定有形文化財)
- 八幡三所社(高島市指定有形文化財)
- (左から)天満・稲荷・寿老・弁財天社
- 岩戸社(左)と磐座(右)
- 歌碑
歌碑・句碑
- 紫式部歌碑 - 石段を登った南側には、源氏物語の作者紫式部が、長徳2年(996年)に越前国司として赴任する父藤原為時に従って近江を通った時に詠んだ「みおの海に 網引く民の てまもなく 立ちゐにつけて 都恋しも」という歌碑が建てられている。歌碑には「近江の海にて 三尾が崎といふ所に 網引くを見て」という詞書がある[28]。
- 与謝野鉄幹・与謝野晶子歌碑 - 手水舎横には与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻が当社へ参詣した際に詠んだ「しらひげの 神のみまへに わくいづみ(上の句:鉄幹)」「これをむすべば ひとの清まる(下の句:晶子)」の歌碑が建てられている[29]。
- 句碑 - 上記の歌碑以外にも下記の歌碑が建てられている。
文化財
祭事
所在地
- 滋賀県高島市鵜川215

