保土ヶ谷宿
東海道五十三次の04番目の宿場
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要
1601年(慶長6年)、武蔵国橘樹郡程ヶ谷(現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区)に置かれた。
岩間町、神戸町、帷子町、程ヶ谷町の4町からなり、神奈川宿から南西に進んだ旧東海道は、芝生村から江戸見附(天王町駅北東)を越えて宿場へ入り、帷子橋を渡って下岩間町・帷子田町・下神戸町・帷子上町・上神戸町・上岩間町・程ヶ谷町と町並みが続く。程ヶ谷町には問屋場や助郷会所などがあり、さらに現在の東海道線踏切を越えた保土ヶ谷橋交差点付近の本陣で大きく西に折れ、茶屋町の先にあった上方見附を経て宿場を出ると元来宿場のあった元町を通り、権太坂を登って東戸塚駅方面へ進む。保土ヶ谷宿の正式なエリアは芝生村追分(洪福寺松原商店街北入口付近)から境木立場(境木地蔵尊付近)までとされており、このため権太坂を保土ヶ谷宿に含めることが多い。
1648年(慶安元年)までは元町(程ヶ谷町)付近に宿場があり、東海道も追分から上岩間町まで北西の位置にあった(古東海道)が、新町(下岩間町 - 程ヶ谷茶屋町)が起立して道筋も変更になった[1]。新町起立の経緯や道筋変更の由来は現在も明らかになっていない[2]。
1843年(天保14年)の『東海道宿村大概帳』によれば、人口2,928人、家屋558軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠67軒であった[3]。旅籠の47軒は飯盛女を抱えていたが、明治に入ると芸娼妓解放令で激減して上岩間町新開地へ集められた[4]。
助郷は、芝生村、市ケ尾村、三反田村、仏向村、下星川村、和田村、坂本村、今井村、太田村、永田村など約40村が務めた[5]
なお、広重『東海道五十三次』の保土ヶ谷・新町橋(帷子橋)に描かれた橋は1965年の帷子川改修により位置が変わっており、旧橋は天王町駅前公園内に「旧帷子橋跡」として保存されている[6][7]。

