Wikiwand AI

保土ヶ谷宿

東海道五十三次の04番目の宿場 From Wikipedia, the free encyclopedia

保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく、ほどがやじゅく、程ヶ谷宿とも書く)は、東海道五十三次の4番目の宿場である。東海道では武蔵国最西端の宿場町である。

種類古代宿場
座標北緯35.44度 東経139.6度 / 35.44; 139.6
概要 保土ヶ谷宿, 種類 ...
保土ヶ谷宿
保土ヶ谷宿・帷子橋(歌川広重『東海道五十三次』より)
種類古代宿場
所在地神奈川県横浜市保土ケ谷区
座標北緯35.44度 東経139.6度 / 35.44; 139.6
保土ヶ谷宿の位置(横浜市内)
保土ヶ谷宿
横浜市における保土ヶ谷宿の位置
保土ヶ谷宿の位置(関東地方内)
保土ヶ谷宿
保土ヶ谷宿 (関東地方)
閉じる
帷子橋跡(天王町駅前)
旅籠・本金子屋跡
葛飾北斎「冨嶽三十六景・東海道程ヶ谷」

概要

1601年(慶長6年)、武蔵国橘樹郡程ヶ谷(現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区)に置かれた。

岩間町、神戸町、帷子町、程ヶ谷町の4町からなり、神奈川宿から南西に進んだ旧東海道は、芝生村から江戸見附(天王町駅北東)を越えて宿場へ入り、帷子橋を渡って下岩間町・帷子田町・下神戸町・帷子上町・上神戸町・上岩間町・程ヶ谷町と町並みが続く。程ヶ谷町には問屋場や助郷会所などがあり、さらに現在の東海道線踏切を越えた保土ヶ谷橋交差点付近の本陣で大きく西に折れ、茶屋町の先にあった上方見附を経て宿場を出ると元来宿場のあった元町を通り、権太坂を登って東戸塚駅方面へ進む。保土ヶ谷宿の正式なエリアは芝生村追分(洪福寺松原商店街北入口付近)から境木立場(境木地蔵尊付近)までとされており、このため権太坂を保土ヶ谷宿に含めることが多い。

1648年(慶安元年)までは元町(程ヶ谷町)付近に宿場があり、東海道も追分から上岩間町まで北西の位置にあった(古東海道)が、新町(下岩間町 - 程ヶ谷茶屋町)が起立して道筋も変更になった[1]。新町起立の経緯や道筋変更の由来は現在も明らかになっていない[2]。

1843年(天保14年)の『東海道宿村大概帳』によれば、人口2,928人、家屋558軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠67軒であった[3]。旅籠の47軒は飯盛女を抱えていたが、明治に入ると芸娼妓解放令で激減して上岩間町新開地へ集められた[4]。

助郷は、芝生村、市ケ尾村、三反田村、仏向村、下星川村、和田村、坂本村、今井村、太田村、永田村など約40村が務めた[5]

なお、広重『東海道五十三次』の保土ヶ谷・新町橋(帷子橋)に描かれた橋は1965年の帷子川改修により位置が変わっており、旧橋は天王町駅前公園内に「旧帷子橋跡」として保存されている[6][7]。

本陣・苅部氏

1601年(慶長6年)、初代苅部清兵衛が徳川家康より、保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の三役を拝命、1870年(明治3年)に本陣が廃止となるまでの約270年11代にわたり三役を務め、歴代当主が苅部清兵衛を名乗ってきた。

旧街道

東海道の他、以下の街道が保土ヶ谷宿周辺から分岐していた。

八王子道
追分 - 鶴ヶ峰 - 町田 - 八王子 - 甲州街道
大山道
追分 - 鶴ヶ峰 - 二俣川 - 大和 - 厚木 - 大山 (古東海道では神戸の神明社前から分岐)
保土ヶ谷道
大門 - 戸部 - 野毛 (- 横浜)
金沢鎌倉道
金沢横町 - 清水ケ丘 - 弘明寺 - 杉田 (- 金沢八景) - 鎌倉

名所・旧跡

(東京側より)

  • 芝生の追分 - 八王子道と大山道の分岐。
  • 江戸方見附跡 - 東京側の見附。
  • 旧帷子橋跡 - 改修前の帷子川に架かっていた橋。
  • 大門 - 保土ヶ谷道の分岐。
  • 旧中之橋跡 - 改修前の今井川に架かっていた橋。
  • 助郷会所跡
  • 問屋場跡
  • 高札場跡
  • 金沢横町道標 - 金沢鎌倉道の分岐。
  • 苅部本陣跡
  • 脇本陣(大金子屋・藤屋・水屋)跡
  • 旅籠屋(本金子屋)跡
  • 茶屋本陣跡 - 本陣に匹敵する規模の茶屋。
  • 茶屋町橋 - 今井川支流に架かる橋。
  • 一里塚跡 - 江戸から8番目の一里塚。
  • 上方見附跡 - 京都側の見附。
  • 旧元町橋跡 - 改修前の今井川に架かっていた橋。
  • 権太坂 - 戸塚宿へ向かう坂。

最寄り駅

隣の宿場

神奈川宿 - 保土ヶ谷宿 - 戸塚宿

脚注と出典

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks