竹内啓一
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- 出生から修学期
1932年、神奈川県高座郡茅ヶ崎町(現・茅ヶ崎市)で生まれた[1]。地元の国民学校を終えた後、父が小松製作所に再入社したため、一時石川県小松市に移り住んだ。旧制石川県立小松中学校から新制石川県立小松高等学校への移行期を小松で迎えたが、高校の途中で茅ヶ崎に戻った。神奈川県立湘南高等学校に転学し、卒業[1]。
1951年、東京大学理科二類に入学。当初は医学に関心を持っていたが[1]、理学部地理学科に進学し、人文地理学を学んだ。ソビエト連邦への関心から、関連文献を読むため本格的にロシア語を学び始めた[1]。1956年に卒業し、同大学大学院に進学。当時の指導教官は小堀巌であった。学部在学時に中学校一級(現中学校1種免許状)、高等学校二級(高等学校1級免許状)の教育職員免許状を取得しており、修士課程在学中に東京都立豊多摩高等学校で時間講師も務めた[1]。この頃、東側陣営で留学が困難であったソ連への渡航を断念し、イタリア留学を目指して伊語を学び始めた。修士論文のテーマはソ連の乾燥地域の地誌であった[1]。1959年に修士課程を修了し、博士課程に進学。
- イタリア滞在時代
1959年秋、イタリア政府給費留学生としてイタリアに渡り、ミラノ大学文学部で学んだ[1]。当初予定された一年足らずの留学期間が終わった後も現地に留まり、イタリア中亜極東研究所に勤務。1962年、当時の財団法人国際文化振興会(後の国際交流基金)に現地採用された[1]。これは「ローマ日本文化会館」の立ち上げ時期に当たっていた。1964年、国際地理学会議ロンドン大会で、石田龍次郎から一橋大学への就職を打診された[1]。その後、1965年までローマ日本文化会館に勤務し、帰国。
- 一橋大学勤務時代
1966年、一橋大学社会学部専任講師に着任。1967年に助教授、1974年に教授昇進。1983年から1985年まで社会学部長も務めた[1]。1973年、同僚の中村喜和や渡辺金一とともに一橋大学地中海研究会を創設し、幅広く研究を進めた[2]。
1988年から3年間、外務省に出向し、在イタリア日本大使館文化担当公使としてローマ日本文化会館館長を務めた[1]。1991年に一橋大学に復職。1994年に一橋大学を定年退職し、名誉教授となった。その後は同年4月より駒澤大学文学部教授として教鞭をとり、2003年の定年まで務めた[1]。
客員研究員として海外の大学で教育や研究にあたることも多く、アイルランド国立大学ゴールウェイ校、ボッコーニ商科大学、インドネシア大学、パリ第7大学、東北師範大学、シェフィールド大学で研究や教育に当たった。現地調査や研究集会のために海外へ出かける機会も多かった。
学界では大学紛争期のまっただ中であった時期(1969年~1971年)に経済地理学会の実務上の責任者である代表幹事を務めるなど、実務面での手腕も優れた手腕を発揮した[3]。特に、駒澤大学へ移ってからは、日本地理学会会長(1994年~1996年)、経済地理学会会長(1994年~2000年)、日本島嶼学会会長(2002年~2005年の死去時まで)を務めた。