細川政之
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細川成之の長男として誕生。父同様、8代将軍・足利義政より偏諱(「政」の字)を許され、政之と名乗る。足利義政・義尚に仕え、応仁の乱に父と共に参戦した。
文明10年(1478年)、娘の死を悲しんだ成之が突如出家し、政之は阿波守護職を譲られ「下屋形」の家督となり、父と共に共同統治を行った。ところが、突然の当主交替に阿波細川氏の家臣は動揺し、家臣同士の対立や政之追放の企てが発覚する(『雅之宿禰記』文明11年8月11日条)などの事態が生じた[2]。
文明14年(1482年)7月、政之の家臣と所司代の家臣が斬り合いを起こして、将軍の親裁で政之側が敗訴すると、憤った政之は父や重臣[注釈 1]の反対を押し切って阿波に下向してしまった(『長興宿禰記』文明14年7月9日条・『後法興院記』同7月26日条・『大乗院寺社雑事記』同閏7月6日条)[2]。
その後、政之は再度上洛するが、文明17年(1485年)7月16日には一部の重臣が成之父子に背いて阿波に帰国(『十輪院内府記』)し、同年10月に現地で反乱を起こした(『蔭涼軒日録』文明17年10月12日条)。このため、成之・政之は阿波に急遽下向して反乱を鎮圧、後継者としての力量を見せた。
だが、政之は
嗣子がなかったため、備中守護家を継いでいた実弟の之勝(改め義春)が実家に戻り、家督を継いだ。