細川義春
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応仁2年(1468年)、阿波守護・細川成之の次男として誕生。
当初は同族である備中国守護・細川勝久の養子となった際、1字(「勝」の字)を受けて之勝(ゆきかつ)と名乗っていたが、実家に戻ってからは10代将軍・足利義材(のちの義稙)より偏諱(「義」の字)を賜って義春(「春」は初代当主・詮春の1字に由来)に改名している[3]。
文明11年(1479年)、義春は軍勢を率いて伊予国に侵攻し、守護の河野氏と戦ったが敗退しているなど、兄・政之に比べ武功には恵まれなかったようである。
長享2年(1488年)、父の跡を継いでいた兄・政之が早世したため、急遽阿波に戻って家督を相続し、同国の守護となった。
義春は細川氏の嫡流である京兆家当主の管領・細川政元の対抗馬として、義材から大変重用されていた[4]。例えば、延徳3年(1491年)6月に義材から将軍家通字の「義」を与えられ、「之勝」から「義春」へと改名した[4]。細川氏が偏諱として与えられていたのは下の字であり、京兆家の当主ですらこれまで「義」の字を名乗ることは許されていなかったのを踏まえると、これは異例の殊遇であった[4]。また、義材は三条御所から一条油小路にあった義春の邸宅に居を移しているが、これは義春にとって大変名誉なことであり、周囲からは「千秋万歳」と祝福された[4]。そのため、義春と政元は対立し、これが明応の政変の一因になったとする説もある[4]。
明応3年(1494年)、義春は山城守護を望んで、守護に任ぜられた伊勢貞陸と争い、また山城在地の国人衆(山城国一揆)を味方につけて貞陸を追い落とそうとした。だが、京兆家の政元はこれを認めず、激怒した義春は同年11月28日に突如として京都を出て、阿波に帰国した。ただし、それから1か月足らずで病没しているため、健康悪化による可能性もある。
明応3年12月21日、兄と同じように父に先立って阿波にて死去した[5]。享年27。