細川頼種
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細川氏庶流の細川宗義の子。『尊卑分脈』によれば伯父にあたる細川義久(又三郎)の養子になったとされる。足利尊氏が建武政権から離反した後、細川氏は主に四国において軍事活動を展開したが、頼種は一族と行動を共にせず本貫地三河国の守備部隊に属した。
建武3年(1336年)4月8日に新田左馬助[1]率いる遠江国の南朝軍が三河に侵攻、同月20日に吉良荘(愛知県西尾市)で激戦が繰り広げられた。足利勢の大将は「宮内少輔四郎」[2]で、頼種は貞経の指揮下で奮戦し新田勢を退けた。足利勢は6月8-9日に宝飯郡八幡、6月28日に宝飯郡本野原(いずれも愛知県豊川市)で追撃戦を行い、新田勢を三河からの駆逐に成功、更に遠江まで進んで天竜川畔で新田勢と戦っている[3]。 追撃戦の最中、6月20日に頼種は討死した[4]。