耳なし芳一
日本の怪談
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概要

小泉八雲の『怪談』(1904年〈明治37年〉刊行)に所収の「耳無芳一の話(みみなしほういち の はなし)[4]」で広く知られるようになった[1][2]。
森銑三らによれば、小泉八雲が典拠としたのは、江戸時代後期の天明2年(1782年)に刊行された一夕散人(いっせきさんじん)の怪談奇談集読本『臥遊奇談(がゆう きだん)』(全5巻5冊)の第2巻「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」であった[7][8][1][9]。
『臥遊奇談』でも琵琶師の名は「芳一」であり、背景舞台は長門国豊浦郡の赤間関、阿弥陀寺とある。これは、幕藩体制下の長門府中藩領赤間関と阿弥陀寺(安徳天皇御影堂を中核とする)にあたり、明治時代初期の神仏分離と廃仏毀釈運動によって阿弥陀寺が廃寺となったのち、現在では、山口県下関市赤間町界隈および阿弥陀寺町の赤間神宮となっている[6]。
昔話として徳島県より採集された例(1985年)では「耳切り団一」で[10]、柳田國男が『一つ目小僧その他』(1934年)[11]等で言及している。
物語
赤間関にある阿弥陀寺に芳一という琵琶法師が住んでいた。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手であった。
ある夜、住職の留守の時に、突然どこからともなく一人の武者が現われる。芳一はその武者に請われて「高貴なお方」の御殿に琵琶を弾きに行く。盲目の芳一にはよく分からなかったが、そこには多くの貴人(きじん)が集っているようであった。壇ノ浦合戦のくだりをと所望され、芳一が演奏を始めると、皆、熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやす。しかし、語りが佳境になるにつれて、皆、声を上げてすすり泣き、激しく感動している様子で、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚く。芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになるが、女中頭から「このことは他言しないように」と釘を刺された。
住職は、目の見えない芳一が無断で毎夜一人で出かけ、明け方に帰ってくることに気付いて不審に思い、寺男たちに後を着けさせた。すると、大雨の中、芳一は一人、誰もいない平家一門の墓地の中におり、平家が推戴していた安徳天皇の墓前で、恐ろしいほど無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。驚愕した寺男たちは強引に芳一を連れ帰る。事実を聞かされ、住職に問い詰められた芳一は、とうとう事情を打ち明けた。芳一が貴人と思っていたのは、近ごろ頻繁に出没しているという平家一門の邪悪な怨霊であった。住職は、怨霊たちが邪魔をされたことで今や芳一の琵琶を聴くことだけでは満足せず、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと案じた。住職は自分がそばにいれば芳一を護ってやれるが、あいにく今夜は法事で芳一のそばに付いていてやることができない。寺男や小僧では怨霊に太刀打ちできないし、芳一を法事の席に連れていけば、怨霊をもその席に連れていってしまうかもしれず、檀家に迷惑をかけかねない。そこで住職は、怨霊の「お経が書かれている体の部分は透明に映って視認できない」という性質を知っていたので、怨霊が芳一を認識できないよう、寺の小僧とともに芳一の全身に般若心経を写経した。ただ、この時、耳(耳介)に写経し忘れたことに気が付かなかった。また、芳一に怨霊が何をしても絶対に無視して音を立てず動かないよう堅く言い含めた。
その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武者が芳一を迎えにきた。しかし、経文の書かれた芳一の体は怨霊である武者には見えない。呼ばれても芳一が返事をしないでいると、怨霊は当惑し、「返事がない。琵琶があるが、芳一はおらん。これはいかん。どこにいるのか見てやらねば…。」と、独り言を漏らす。怨霊は芳一の姿を探し回った挙句、写経し忘れた耳のみを暗闇の中に見つけ出した。「よかろう。返事をする口がないのだ。両耳のほか、琵琶師の体は何も残っておらん。ならば、できる限り上様の仰せられたとおりにした証として、この耳を持ち帰るほかあるまい。」と怨霊はつぶやき、怪力でもって芳一の頭から耳をもぎ取った。それでも芳一は身動き一つせず、声を出さなかった。怨霊はそのまま去っていった。 明け方になって帰ってきた住職は、両の耳をちぎられ、血だらけになって意識を無くした芳一の様子に驚き、昨夜の一部始終を聞いた後、芳一の全身に般若心経を書き写いた際に納所が経文を耳にだけ書き漏らしてしまったことに気付き、そのことを見落としてしまった自らの非を芳一に詫びた。
その後、芳一の前に平家の怨霊は二度と現れず、また、良い医師の手によって芳一の耳の傷もほどなくして癒えた。この不思議な出来事は世間に広まり、彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。やがて、芳一は、琵琶の腕前も評判になり、その後は何不自由なく暮らしたという。
物語の舞台
この物語は、芳一たち人間が住まう阿弥陀寺と、怨霊たちが「逗留している」と称する実体無き御殿、その実態である安徳天皇の墓所という、2つの場所(実際には幻でしかない御殿も数えるなら3つの場所)だけで、話の大部分が進行する。
阿弥陀寺
真言宗の寺院。 なお、地元・下関では「阿弥陀寺」を「あみだいじ」と読むというが、これは、数え年8歳・満6歳4か月という若さでこの世を去った安徳天皇の墓所を「大事(だいじ)」に守っていこうとの含意あってのもの[12]らしい。
御殿
「御殿(ごてん)」「館(やかた)」「屋敷(やしき)」「御旅館[13](ごりょかん)」など、様々な呼び方をしている。壇ノ浦合戦の跡地を見に来たという平家一門の怨霊たちが「逗留している」と称する豪奢な建物で、実体は無い。幽霊の招きに応じて取り込まれてしまった芳一には、感触や匂いまでも感じられて、現実の物と思えたが、端から信じていない寺男たちには、五感で感じ取れる物は何も無く、そこには安徳天皇の小さな墓所があるだけで、彼らの眼に映るのは、おびただしい数の鬼火が周りを飛び交っている怖ろしい光景でしかなかった。この墓所というのは、江戸時代初期に設けられた(整備された)と考えられる「七盛塚」のことであろうといわれている。
登場人物
人間
- 芳一(ほういち)
- 主人公。琵琶の弾奏に特別な才能を見せる若き琵琶法師である。「少年」とされるが、正確には10代後半であり、芳一堂に祀られている木像も、大人になるにはまだ早い子供といった感じで造形されている。ただし、後世のリメイク作品などでは、青年あるいは大人のイメージで描写されるのが通例となっており、子役がキャスティングされた例は見当たらない。
- 盲(めし)いて生まれた芳一は、貧しい境遇に育ったが、幼くして師匠を凌ぐほどの才気に溢れた芸がその身を大いに助けた。赤間関の阿弥陀寺に身を寄せたのも、芸能の才が手繰り寄せた良運であった。阿弥陀寺での芳一は、芸能好きの住職に衣食住の足るを約束され、必ずやるべきことと言えば、住職の求めに応じて琵琶を奏してみせることのみであった。しかし、檀家に不幸があったので住職たちが出掛けてしまい、芳一がひとり切り寺に残って過ごすことになった蒸し暑い夏の夜のこと、怖ろしき怨霊どもの耳にも届いてしまった芳一の才が、今度は命に係わる禍事(まがごと)を引き寄せてしまう。盲いたか弱き少年の前に、居丈高な大男の気配が現れた。
- 耳なし芳一
- 事件が解決した後、しばらく経って呼ばれるようになった、芳一の通名。ただ、文献によって名称と表記はまちまちである。大きく「耳切れ」と「耳無し」に分かれており、後者は小泉八雲が「耳無芳一の話」で用いて以降の文献からしか見ていないと、近藤清兄は言っている[14]。
- 芳一ばかりでなく、「耳切れ○○」は類例が多い。仮名草子『曽呂利物語』(寛文3年〈1663年〉刊行)巻第4の9[15]の「耳切れうん市が事(みみきれうんいちがこと)」では、その名は「うん市」、事件後の「耳切れうん市」であり[16]、怪談集『宿直草(とのいぐさ)』(延宝5年〈1677年〉刊行)巻2第11の「小宰相の局、ゆうれいの事(こざいしょうのつぼね ゆうれいのこと)」では、その名は「団都(だんいち)」、事件後の「耳きれ団都」である[17]。「#類話」も参照のこと。
- 耳無芳一[4] / 耳無し芳一 / 耳なし芳一(みみなし ほういち)
- 住職(じゅうしょく)
- 納所(なっしょ)
- 寺男(てらおとこ)
- 小僧(こぞう)
- 寺の小坊主たち。芳一を捜す寺男たちと行動を共にするも、言葉を発する場面は無い。
怨霊
解説する際は「幽霊」「亡霊[19]」「怨霊」などと呼ばれる[注 1]が、オリジナルとそれに近い物語の中では「霊」とさえ呼ばれない。小泉八雲の「耳無芳一の話」でもそうで、「幽霊(幽霊火)」「霊」「怨霊」が物語の前段の昔語りで用いられているのみで、武者を始めとする芳一たちと関わる怪しき者たちを指して「霊」とは言っていない。
赤間関の御殿に逗留中の平家一門の怨霊たち。壇ノ浦合戦の跡地を見るために赤間関を訪れ、御殿に逗留していると言ってはいるが、その実は、赤間関にある幼帝・安徳天皇の墓所に寄り集まった霊魂たちであった。
- 武者(むしゃ)
- 「武者[4]」「武士[4]」「侍[4]」などと呼ばれる。
- 鎧を身に纏った侍の怨霊で、平家一門を統べる上様に仕える偉丈夫である。上様のことは「今の殿様[4]」「身共(みども)の主君[19]」「我が君[19]」などと呼ぶ。上様から芳一の送り迎えを仰せつかっている。リメイク作品での描かれ方には幅があり、兜ではなく侍烏帽子(さむらい えぼし)を被っているものを基本としながらも、中には大鎧姿で描かれるものもある。芳一はこの武者を殿居(とのい)の衛士(貴人に仕える夜警の侍)であろうと考えた。盲目の芳一は、この武者に送り迎えされるにあたり、時として手を引かれるのであるが、その際、鍛え上げられた鉄のような硬さと、冷え冷えとした感触を覚えている。
- 女中頭(じょちゅうがしら)[4]
- 平家一門に仕える女中たちの頭。女中たちも怨霊であり、武者と上様の間、そして、上様と芳一の間で、取り次ぎの役目を担っているのが女中頭である。芳一と言葉を交わすことになったただ一人の女中を、芳一は女中頭と考えた。姿は見えなくとも、芳一は彼女を老女と感じた。その老女は、自分たちが何者であるかについて、芳一に話せる範囲で解き明かしてくれる。しかし一方で、自分たちの御殿に参内していることを誰にも明かさぬよう、それが御上意であるからと、芳一に厳命してもいる。
- 女たち
- 止ん事無き平家一門の女たち。芳一の腕前に驚き、絶賛し、天才が爪弾く語り物の悲しい結末に咽び泣く。
- 上様(うえさま)
類話
芳一堂と七盛塚
芳一堂(ほういち どう)は、赤間神宮の境内にある祠である。1957年(昭和32年)5月[20]に建立された[21][22]。堂内には、山崎朝雲の門下生で山口県防府市出身の彫刻家である押田政夫(おしだ まさお)の手になる芳一像(木造芳一坐像)が(堂の建立時に)奉納されている[20][21][22]。
また、芳一堂の左手には平家一門を供養する七盛塚(しちもりづか、ななもりづか)があり[23]、毎年7月15日には芳一堂と七盛塚の前で「耳なし芳一琵琶供養祭」(通称:耳なし芳一まつり)が斎行されている[21]。
七盛塚は、関ヶ原合戦(慶長5年/1600年)の頃、関門海峡で頻発した海難事故を「平家の怨霊が騒ぎ出した」と世間が騒いだことを受けて、赤間関を擁する紅石山の山腹に中世の頃から散在していた7基の墓標を、江戸時代になって阿弥陀寺の境内に参集させたものである[21][23]。そのようなことから、平家一門を慰めるために芳一が招かれたという墓場が“実在するこの七盛塚”であったとすれば、その物語が整えられたのは江戸時代ということになる[21][23]。

