自画像 (ヴィジェ=ルブラン)
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| ロシア語: Автопортрет 英語: Self-Portrait | |
| 作者 | エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン |
|---|---|
| 製作年 | 1800年 |
| 素材 | キャンバス上に油彩 |
| 寸法 | 78.5 cm × 68 cm (30.9 in × 27 in) |
| 所蔵 | エルミタージュ美術館、サンクトペテルブルク |
『自画像』(じがぞう、露: Автопортрет、英: Self-Portrait)は、18世紀から19世紀にかけてのフランスの女性画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが1800年にキャンバス上に油彩で制作した絵画である。画家の数々の自画像の1つで、ロシアのサンクトペテルブルクで描かれた。1922年に美術アカデミーから移されて以来、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に所蔵されている[1][2]。
ヴィジェ=ルブランは、最初パステル画家であった父から絵画を習った。その後、風景画家クロード・ジョセフ・ヴェルネの強い推薦もあり、パリの王立絵画彫刻アカデミーに入会を許された数少ない女性画家の1人となる。彼女は肖像画を得意としたが、肖像画は、社会的に女性にふさわしいとされていた[3]。
まもなく影響力のあるパトロンたちの眼に留まったヴィジェ=ルブランの才能は、フランス、ロシア、オーストリア、イタリアの王室に知られるようになる。中でも、フランス王妃マリー・アントワネットは、彼女がお気に入りであった。700点ほどの肖像画を描いた彼女は当時、数少ない女性職業画家として自立した生活を送ることができた[3]が、その最も華やかな時期はフランス革命以前のアンシャン・レジーム (旧体制) 時代最後の時期である[4]。
ヴィジェ=ルブランは1789年にフランス革命が起きると、王妃の肖像画家であったためにフランスから亡命せざるをえなくなった。そして、亡命中の12年間はヨーロッパの都市を転々としたが、行く先々で上流階級の女性の肖像画を手掛け、数々の優美な女性像を生み出した[5]。
作品

ヴィジェ=ルブランは、ウィーンでロシア領事のラズモフスキー伯爵を初めとする人々に出会い、ロシア訪問を勧められた[2]。本作は、1795年にサンクトペテルブルクに到着した[2]ヴィジェ=ルブランがロシア宮廷で絵画制作をしていた時代のものである[1]。フランス風のサンクトペテルブルクのサロンに見事になじんだ画家は、自身の『回顧録』で述べているように皇室や貴族たちに格別の待遇を受け、彼女の言葉によれば彼らの肖像画を48点描いた。しかし、実際にはもっと多くの肖像画を描いている[2]。
ロシアを離れる前年の1800年、ヴィジェ=ルブランは、サンクトペテルブルクの美術アカデミーの院長アレクサンドル・ストロガノフ伯爵のはからいによって美術アカデミー名誉会員となる。同年6月日に開催された式典は、ヴィジェ=ルブランにとってロシア滞在中の最も素晴らしい思い出の1つとなった[2]。彼女は『回顧録』の中で、その細部にいたるまで語り、「私は、サンクトペテルブルクのアカデミーのために自画像を描きました。パレットを手にして絵を描いているところです」と記している。画家が描いているのは、ロシア皇帝パーヴェル1世の妃マリア・フョードロヴナの肖像である。この肖像は、1799年にヴィジェ=ルブランが制作したマリア・フョードロヴナの全身を表す公式肖像画を半身像にしたものである[2]。新古典主義の様式で描かれているが、その厳格さは画面の親密性を損なっていない。明晰な構図は、生き生きとした画家のポーズ、優雅な仕草、やや恥じらいを含んだ女性らしさによってやわらげられている[1]。
なお、ヴィジェ=ルブランは本作のようにパレットや絵筆を持つ自画像だけでなく、パレットや絵筆なしの自画像、『ジュリーとの自画像』 (ルーヴル美術館、パリ)[6] のように娘のジュリーとともに自身を表した自画像など様々な自画像を制作している。
ヴィジェ=ルブランの自画像
- 『麦わら帽子の自画像』 (1782年、または以降)、ナショナル・ギャラリー (ロンドン)
- 『ヴィジェ=ルブラン夫人と娘のジャンヌ=リュシー=ルイーズ』 (1789年)、ルーヴル美術館、パリ