洞院公賢
日本の公卿 (1291–1360)
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経歴
正応4年(1291年)誕生。父・実泰の蔭位により同年従五位下に叙され、数え7歳にして早くも正五位下侍従となる。文保2年(1318年)後醍醐天皇の即位の際には皇太子邦良親王の春宮大夫を務める。また、後醍醐天皇の側室阿野廉子の養父となっている。元徳2年(1330年)内大臣に就任するが、翌年辞職。後伏見院の院執事として鎌倉幕府の滅亡を迎える。建武の新政が始まると内大臣に還任。翌年には右大臣に昇る。雑訴決断所頭人や伝奏なども兼ね、建武政権でも重きをなし、延元元年(1336年)には義良親王(のちの後村上天皇)の元服に際し、加冠役を務めたほどであったが、南北朝分立後は北朝に属し、北朝側の重鎮として光厳院の院執事となる。以後、たびたび辞意を表するが受け入れられず、左大臣・太政大臣を歴任。
公賢は朝廷で高位高官の地位にあって朝政を主導しただけでなく、有職故実にも明るく学識経験も豊富だったため、天皇・院・公家らから相談を受けることも多く、その日記『園太暦』はこの時代の朝廷の様々な人物の動きを知る上での貴重な基本史料となっている。観応2年(1351年)のいわゆる「正平の一統」においては北朝側の代表として交渉をまとめた。だが、南朝側による崇光天皇らの吉野への連行事件、続く文和2年(1353年)の後光厳天皇の美濃国退避に同行しなかったことから天皇の疑心を買い、政治の中枢から外れていくことになる。「聖朝之半隠、当世之外物」(『魚魯愚鈔』所収「揚名介事」奥書)と記したのもこの時期のことである[2]。また、この時期に南朝に下った異母弟の実守を後継者から外して、実子の実夏を後継者としたものの、実夏と不仲になったために実守を帰参させて再び後継者にしようと図り、公賢没後の家門争いの原因となった[3]。延文4年(1359年)にようやく辞職が許されて出家、空元と号した。翌年薨御。
他の著書に『皇代暦』・『魚魯愚鈔』など。子に洞院実夏・実世。孫に『尊卑分脈』を編んだ洞院公定(実夏の子)がいる。また、鷹司師平・一条経通の2代の関白を娘婿、左大臣近衛道嗣を孫婿(正室は実夏の娘、公賢没後に関白となる)として彼らの相談役としても活躍した。
康永三年の辞左大臣表について
以下の官歴に見る通り、洞院公賢は康永3年(1344年)2月21日および同年12月18日の二度にわたり、左大臣の辞職を請う上表を行った。これら二通の辞表は、いずれも公賢自身の日記『園太暦』に記録されている。
2月21日の辞表
臣公賢言、商丘無用之木矣、何比舟檝之材[4]、燕岱有類之石焉、豈混瑚璉之器[5]、遠取諸物、近取諸身[6]、臣公賢誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪、臣聞、大臣者協賛帷幄、儀形簪紱、以翼以弼、鼎司当塩梅之任[7]、為衡為鈞、棟宇叶社禝之臣[8]、是以高祖之興隆漢也、施皇明於蕭曹之功[9]、太宗之弘巨唐也、得王佐於房杜之誉[10]、国之匡輔、寔因賢良者歟、如臣者岳降謝精、淵博隔智、唯禀家門之茂績、多歴文武之清要、燮季功疎、三台三遷之運過分、短材位高、一喜一懼之心相半、於戯魏公二百余事、有進而退之詞[11]、周老八十一章、有盈而止之訓[12]、就中三合之慎当于年、虚受之責在子天、云彼云是、不可不謙、且毎思淳朴之道、弥欲謝伐檀之詠[13]、方今陛下宝業布化矣、文思垂風矣、祁姓姚姓之主[14]、任庸璅者、可黷厥名焉、五竜六竜之臣[15]、預躬迎者、何隠厥鱗矣、微而栄進、徳広所及也、伏羨乾慈、曲廻辰晷、然則妄沢之譏難遁、縦解鵲印於槐庭之月[16]、報国之忠未忘、猶仰鴻化於蓬闕之雲[17]、将避傍人之嘲、忝酬明君之恩、不勝方寸悚迫之至、謹奉表、陳乞以聞、臣公賢誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪、謹言、[注釈 1]
康永三年二月廿一日、従一位行左大臣臣藤原朝臣公賢上表
まず、冒頭の自己卑下が秀逸だ。『荘子』の「無用の木」や『論語』の「瑚璉(器)」といった著名な古典を引き合いに出し、自分を「役に立たないねじれた木材」や「道端の石ころ」と定義する。国家の重鎮である左大臣が、自らを未加工の素材(木や石)に例え、祭祀や政治に使われる完成された「器」ではないと断じるレトリックは、自身の無能さを強調すると同時に、理想的な臣下像というものを逆説的に浮き彫りにしている。
中盤では、漢の蕭何・曹参、唐の房玄齢・杜如晦といった中国史上のスーパースター級の名宰相を列挙し、「政治とは彼らのような天才が行うものであり、私のような凡人がやるものではない」と論を展開する。ここで公賢は、魏徴や老子の言葉を借りて「進むこと」よりも「退くこと(知足)」の重要性を説く。頂点に達する前に止めることこそが天の理であり、分不相応な地位に居座り続けることは、『詩経』にある「働かずに大飯を食らう者(伐檀)」として世間の指弾を受けることになると、自身の恐怖心を吐露している。これは保身であると同時に、貴族としての高いプライドの裏返しでもある。
また、天皇を伝説の聖王(堯・舜)になぞらえ、「聖人の治世には、必ずや野に隠れた賢人(五龍・六龍)がいるはずだ」として、自分の後任に真の賢者を登用するよう促す論理も鮮やかだ。自分が辞めることが、ひいては国家のためになり、新たな人材発掘につながるという「公益」を盾に辞任を正当化している。
結びの「槐庭(朝廷)の月に官印を解く」という表現は、非常に映像的で美しい。権力の中枢に未練なく別れを告げ、一人の忠臣として精神的な支柱であり続けることを誓う姿は、まことに風流である。全体を通して、単なる職務放棄の願いではなく、漢籍の教養を駆使して「引き際の美学」を演出した、極めて知的で格調高い文学作品のような仕上がりとなっている。
12月18日の辞表
臣公賢言、去二月廿二日、中使正四位下行右近衛権中将藤原朝臣公世、出自中禁[18]、返以上疏、天高聴卑[19]、徒謝栄路於鶴唳[20]、年老力微、何負恩山於亀背[21]、臣公賢誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪、臣聞、臣以君為心、君以臣為体[22]、上雖有陶臣、非四岳之一岳者、争馭至徳[23]、上雖有商湯、臣非三鼎之一鼎者、安説滋味[24]、臣倩顧、鈍劣之質更無採用之道、所謂探燕雀之巣者、不得鳳凰之卵[25]、入枳棘之林者、未見梁柱之材之義也[26]、設其位者英博可受、求其人者器識可帰、如臣者庸朽取已、以栄為憂焉、恩禄余身、不知所裁矣、晨兢夕惕[27]、暑往寒来[28]、方今我君若稽古道、経緯天地[29]、明徳広被、再披大明於大雅中[30]、賢才無隠、誰秘遺賢於遺民間、於戯西山月老[31]、仁紫庭之有遑、南陽日長、高文通之不仕[32]、微兮委任、益于政猷歟、伏望、宸鑑早垂允容[33]、不耐懇欵慚懼之至、謹重抗表陳譲、以聞、臣公賢誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪、謹言、[注釈 2]
康永三年十二月十八日、従一位行左大臣藤原朝臣公賢上表
まず目を引くのは、徹底した「謙遜」と「自己卑下」のレトリックだ。「風声鶴唳」や「亀背」といった故事成語や比喩を駆使して、自分がいかに小心者で、年老いて腰が曲がり、役立たずであるかを強調している。「鶴の鳴き声に怯える敗残兵」や「甲羅のように背が曲がった亀」というイメージは視覚的にも強烈で、公賢が自身の老いと無力さをあえて戯画化して訴えている様子が伝わってくる。これは単なる事実の陳述ではなく、天皇に対して「これほど弱り切った忠臣を無理に働かせるのですか」と情に訴える高度な心理戦術とも言えるだろう。
次に注目すべきは、天皇を持ち上げることで逆説的に辞任を正当化する論理展開の巧みさだ。「君主は心、臣下は体」という儒教的な身体論を持ち出し、「陛下は伝説の聖王である堯や湯王のように素晴らしい。だからこそ、私のような凡庸な臣下(燕雀や棘)では釣り合わない」と主張する。つまり、自分の無能さを嘆くふりをしながら、実は「名君には名臣が必要だ」という正論を盾にして、自分を解放するように迫っているわけだ。自分が有能であることを証明するために書くのが現代のエントリーシートなら、ここで行われているのは「いかに自分が無能か」を格調高く証明するコンテストのようなもので、その逆説が面白い。
また、文中に散りばめられた引用の多さ(『史記』『詩経』『後漢書』など)は、公賢という人物の並々ならぬ教養の深さを如実に物語っている。「凡庸な私には務まらない」と書きながら、その文章自体が極めて高度な知識と文章力を必要とするものであり、皮肉にも彼が大臣にふさわしい教養人であることを証明してしまっている点は滑稽でもあり、貴族文化の粋でもある。
最後に、隠遁への憧れを語る部分(西山の月、南陽の日長)には、激動の南北朝時代を生きる政治家の本音が透けて見えるようで味わい深い。伯夷・叔斉や高鳳といった隠士の名前を挙げ、政治のドロドロした世界から離れて静かに暮らしたいという願望を美しく飾っている。もちろん、これが額面通りの本心なのか、それとも「これほど高潔な私」を演出するためのポーズなのかは定かではない。しかし、こうした典雅な美辞麗句で身を包み、老いと教養を武器に権力者と渡り合う姿からは、中世の貴族が持っていた強かな精神性が感じられる。
官歴
※日付=旧暦
| 年 | 月日 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 正応4年(1291年) | ? | 1 | 誕生 |
| 正応5年(1292年) | 4月 | 2 | 叙従五位下 |
| 永仁2年(1294年) | 1月6日 | 4 | 叙従五位上 |
| 永仁4年(1296年) | 1月7日 | 6 | 叙正五位下東二条院御給 |
| 永仁5年(1297年) | 12月17日 | 7 | 任侍従 |
| 永仁6年(1298年) | 1月5日 | 8 | 叙従四位下玄輝門院御給 |
| 4月9日 | 任左少将 | ||
| 永仁7年(1299年) | 3月24日 | 9 | 叙従四位上 |
| 正安2年(1300年) | 1月11日 | 10 | 叙正四位下朝覲行幸、春宮権大夫実泰卿院司賞讓 |
| 嘉元3年(1305年) | 1月22日 | 15 | 兼陸奥権介 |
| 徳治1年(1306年) | 12月22日 | 16 | 兼左中弁左少将如元 |
| 徳治2年(1307年) | 3月2日 | 17 | 兼左宮城使 |
| 延慶1年(1308年) | 閏8月8日 | 18 | 喪母母入道正二位権中納言小倉公雄卿三女従二位季子 |
| 9月17日 | 止左中弁 | ||
| 9月20日 | 叙従三位 | ||
| 12月10日 | 任左中将 | ||
| 延慶2年(1309年) | 9月22日 | 19 | 兼左大弁 |
| 10月15日 | 任参議 | ||
| 延慶3年(1310年) | 1月5日 | 20 | 叙正三位伏見院御給 |
| 3月9日 | 任権中納言参議大弁労二箇年 | ||
| 8月2日 | 兼左兵衛督 | ||
| 応長1年(1311年) | 4月15日 | 21 | 叙従二位 |
| 5月26日 | 転右衛門督 | ||
| 正和1年(1312年) | 12月12日 | 22 | 転左衛門督 |
| 正和3年(1314年) | 1月2日 | 24 | 叙正二位朝覲行幸、伏見院御給 |
| 文保2年(1318年) | 3月9日 | 28 | 兼春宮大夫立坊日 |
| 8月13日 | 止左衛門督讓舍弟公敏卿 | ||
| 8月24日 | 任権大納言 | ||
| 元応元年(1319年) | 9月5日 | 29 | 勅授帯剣 |
| 正中元年(1324年) | ? | 34 | 任大納言 |
| 嘉暦元年(1326年) | 3月20日 | 36 | 止春宮大夫依春宮薨去也 |
| 11月4日 | 兼右大将 | ||
| 12月24日 | 兼右馬寮御監 | ||
| 嘉暦2年(1327年) | 8月15日 | 37 | 喪父父従一位左大臣兼陸奥出羽按察使実泰公、号後山本左府 |
| 嘉暦3年(1328年) | 9月14日 | 38 | 除服出仕宣下 |
| 元徳2年(1330年) | 3月5日 | 40 | 任内大臣無饗禄、右大将如元 |
| 3月22日 | 辞右大将 | ||
| 元弘1年(1331年) | 2月1日 | 41 | 辞内大臣 |
| 正慶2年(1333年) | 6月12日 | 43 | 還任宣下 |
| 建武1年(1334年) | 9月9日 | 44 | 上表依病也 |
| 12月17日 | 兼式部卿 | ||
| 建武2年(1335年) | 1月5日 | 45 | 叙従一位元徳元年春日行幸行事賞 |
| 2月16日 | 任右大臣式部卿如元 | ||
| 3月6日 | 兼春宮傅 | ||
| 建武3年(1336年) | 10月10日 | 46 | 止春宮傅依春宮北国行啓也 |
| 建武4年(1337年) | 6月9日 | 47 | 辞退 |
| 7月12日 | 止之 | ||
| 康永2年(1343年) | 4月10日 | 53 | 任左大臣無饗禄、不設賓筵 |
| 康永3年(1344年) | 2月21日 | 54 | 上表 |
| 被返下表 | |||
| 12月18日 | 上表、猶為当職参公事 | ||
| 貞和1年(1345年) | 9月6日 | 55 | 上表不許、猶当職也、被返下表 |
| 貞和2年(1346年) | 6月11日 | 56 | 辞退今度不及上表 |
| 貞和4年(1348年) | 10月20日 | 58 | 任大臣兼宣旨 |
| 10月22日 | 任太政大臣今日設賓筵 | ||
| 貞和5年(1349年) | 12月14日 | 59 | 蒙輦車宣旨 |
| 12月25日 | 蒙牛車宣旨 | ||
| 観応1年(1350年) | 3月18日 | 60 | 上表 |
| 正平6年(1351年) | 11月13日 | 61 | 南朝任左大臣、兼後院別当 |
| 正平8年(1353年) | 6月21日 | 63 | 南朝任太政大臣 |
| 延文4年(1359年) | 4月15日 | 69 | 出家法名空元 |
| 延文5年(1360年) | 4月6日 | 70 | 薨自去比黄疸病悩 |
系譜
- 父:洞院実泰
- 母:小倉季子 - 小倉公雄の娘
- 室:粟田光子(右馬頭粟田光久の娘、後醍醐天皇乳母、従三位)
- 室:西華門院中納言局(参議親世[注釈 3]の娘)
- 男子:慈宗 - 法印権大僧都
- 室:権大納言小倉実教の娘
- 男子:桓恵 - 大僧正、実乗院門跡
- 室:嘉暦先坊少将局
- 男子:境空(? - 1394) - 竹林寺浄土寺二尊院住持、法位上人、隠遁号遣迎院竹林寺
- 妾:家女房高倉局(右馬頭粟田光久の娘)
- 妾:家女房小宰相局
- 男子:賢実 - 法華宗僧
- 妾:家女房中納言局
- 妾:家女房
- 室:後伏見院三条局
- 女子:比丘尼真当 - 守清庵
- 室:花園院兵衛督局
- 女子:比丘尼理明 - 播磨安養院
- 室:波多野因幡入道通貞の娘
- 女子:比丘尼恵林 - 景愛寺
- 室:堀川基俊の娘
- 女子:退覚 - 禁中伺候、遁世、野宫摂取院
- 妾:洞院公敏の娘
- 生母不明の子女
- 養子