諏訪神社 (南丹市)

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位置 北緯35度19分11.0秒 東経135度33分32.7秒 / 北緯35.319722度 東経135.559083度 / 35.319722; 135.559083座標: 北緯35度19分11.0秒 東経135度33分32.7秒 / 北緯35.319722度 東経135.559083度 / 35.319722; 135.559083
諏訪神社
所在地 京都府南丹市美山町鶴ケ岡宮ノ腰2
位置 北緯35度19分11.0秒 東経135度33分32.7秒 / 北緯35.319722度 東経135.559083度 / 35.319722; 135.559083座標: 北緯35度19分11.0秒 東経135度33分32.7秒 / 北緯35.319722度 東経135.559083度 / 35.319722; 135.559083
主祭神 建御名方神[1]
社格郷社[2][3]
創建 713年和銅6年)、または1378年永和4年)[3]
本殿の様式 柿葺単層神明造・三間三面、唐破風 向拝付き上屋[2]
別名 通称:鶴ヶ岡諏訪神社
古称:大森大明神
主な神事 1月5日  お狩初め[4]
1月15日前後  とんど
10月初旬  奉納相撲[4]
10月5日  例祭[5]※15年ごとに棚野の千両祭
地図
諏訪神社の位置(京都府内)
諏訪神社
諏訪神社
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諏訪神社(すわじんじゃ)は、京都府南丹市美山町鶴ケ岡にある神社旧社格郷社。15年ごとの大祭「棚野の千両祭」で奉納される祭礼芸能は、京都府登録無形民俗文化財になっている。

概歴

諏訪神社は、南丹市の北端鶴ヶ岡地域で、由良川水系の棚野川と西川との合流地の左岸に鎮座する。旧鶴ヶ岡19ヵ所(現在18ヵ所)の氏神で、神使とし、猪鹿退治の守護神として崇敬されている[5]神紋は「違い鎌」[3]

神社所蔵の縁起によると、713年和銅6年)に殿の長井正山峰(長井山)に建立、当初は大森大明神と号した(正一位上大森大明神の金箔の額が現存している)。創建年次の詳細は分からない。後になって、大和から来た大長大師円勝坊が獣害を除いて土民を安堵させようと、1369年応安2年)に信州諏訪神社勧請して、現在の地域に社殿を創立して建御名方命を祀ったと言われている。

1378年(永和4年)に当地に建てられた時には今の社域の下段にあったが、正山のふもとに再建立され、1712年正徳2年)の神殿改築で現在の位置に移った[6]

1883年明治16年)に郷社へ昇格した[7]

祭神

  • 建御名方神(たけみなかたのかみ)
日本神話で、大国主命の子。武神とされる[8]。神社の創建で、京都市右京区京北弓削から知井にかけて伝わる八鹿(やつしか)退治にまつわる建御名方神の物語がある。このことからも、農耕・狩猟の神として崇められている[9]

組織

  • 宮総代会
5つの大字(高野、鶴ケ岡、豊郷、盛郷、福居)から1人ずつ宮総代を任期3年で選出して総代会を組織している。総代長は宮総代の中から選ばれる。年1回12月に世話人会が開かれ、18集落(今宮、栃原、砂木、棚、川合、殿、舟津、松尾、神谷、名島、洞、田土、上吉田、林、庄田、脇、熊壁、山森)の各区長と鶴ヶ岡振興会などを加え、情報共有や神札の配布が行われる[10]
  • 棚野の千両祭実行委員会

境内

本殿

本殿は北向きに建っており、柿葺単層神明造で三間三面、唐破風 向拝が付き、覆屋がある[2]

摂末社

  • 八幡社
祭日:8月15日

その他

  • 宮池  コイがいる。
  • 土俵  相撲が奉納される。
  • 表門
  • 鳥居
  • 手水舎
  • 社務所

主な祭事

お狩り初め

氏子範囲と御旅所
大字名集落名(区)御旅所(御狩場)
高野 今宮 今宮稲荷神社[11]
栃原 高野天満宮
砂木
鶴ヶ岡
呼称:字鶴
川合
殿 稲荷神社
別名:稲荷大明神
舟津
旧称:船津
御霊神社[9]
豊郷 松尾 鈴波神社[12]
所在地:松尾
神谷
名島
八坂神社
盛郷 田土 大森神社[9]
上吉田
旧称:吉田
祇園神社[9]
大及 ※廃村 ------
福居 庄田
熊壁 八坂神社
山森

諏訪神社の法師は神官を兼ねて、棚・砂木の二村を祈祷布施所とし砂木に狩蔵を作って当社の狩所とした。円勝法師の創始した由緒により、毎年1月5日を「御狩の日」と定め、狩猟の安全と豊作を祈る神事「お狩り初め」を行っている[2]

1945年昭和20年)まで

神前での神事のあと、お狩場に設けた祭壇に向かい食物を供える。宮司は草鞋脚絆の扮装で腰に短刀を帯びて、神幣を捧げ持って先頭に立ち、その後を供奉の氏子たちは弓・槍・銃を持って従い疾走し、砂木の狩倉山(狩蔵山)へ駆け登り、途中閧(とき)の声を上げながら猪・鹿などの獣を追い、猪・鹿を獲ってお狩場の祭壇(神前)に獲物を供えていた[2]。この様式にも変遷はあったが、1945年昭和20年)まで続けられていた。このため、大晦日から正月5日まで、南は川合・相白の境である烏帽子岩に、東は田土、西は松尾の境に忌縄を張って通行を禁じ、住民はこれを犯さなかった。しかし、通行禁止明治維新のときに廃止になった[3]

1945年昭和20年)から

お狩り初めの神事は「出初め」とも呼ばれて続いている。毎年1月5日、神前に氏子範囲である鶴ヶ岡各地区の代表者などが参列して、宮司、宮総代が神事にあたる。現在はお狩場を毎年変えて、1年間忌み事のなかった村の御旅所へ移動して神事が行われている[4]

朝10時ごろ、宮司と狩衣姿の氏子らの手水が済むと、宮司が太鼓を打ち神事のはじまりを告げる。一同は東門から境内を出て、一列になって表門から境内に戻り本殿の前まで進む。神前で国歌斉唱と、修祓、神饌、祝詞奏上、玉串の儀礼があり、それから摂末社の八幡神社を参拝する。その後、一同は弓や槍を持って車でお狩場(御旅所)に向かう。御旅所では、集落の氏子たちが待ち受けていて神事をも守る。神饌が並べ、祝詞などの儀礼が一通り行われ、最後にお神酒が振る舞われる。猟銃を手にした猟友会代表や勢子の参加もあり、以前は御旅所に向かう途中で小銃を発射しときの声を挙げて威勢をつけていた[13]

とんど

鶴ヶ岡振興会との共催でとんどが1月15日前後に行われる。

奉納相撲

毎年秋、境内の土俵で「ちびっこ相撲大会」が開かれ、乳児幼児児童ら男女の取組が奉納される[14]

1883年明治16年)の郷社昇格を機に奉納相撲として始まったもので、1998年平成10年)ごろから子どもの相撲大会として開かれるようになった[7]。古くから夜宮相撲として10月4日の夜に奉納されてきたが[9]2017年平成29年)から9月後半から10月前半の週末の昼に実施されるようになった[15]

例祭

毎年10月5日に斎行される[5]。祭りのあと、氏子総代がなれずしを持ち寄って食べ比べ味比べをする習わしがある。鶴ヶ岡のなれずしは、一夜酢漬けにした小サバとうるち米を使い、クマザサの葉と重ね合わせながら樽付けで発酵させてるくる伝統食品である[16]

例年は通常の例祭だが、15年ごとに大祭が行われ、棚野の千両祭と呼ばれている。大祭では、5つの大字ごとで異なる伝統芸能が奉納される。この芸能は、京都府登録無形民俗文化財になっている[17]

文化財

諏訪神社関連の指定および登録の文化財は次の通り。

無形民俗
天然記念物
幹周:4.3m[19]
樹高:40m[19]
建造物
  • 本殿  南丹市指定2005年(平成17年)12月22日[18]
  • 表門  南丹市指定2005年(平成17年)12月22日[18]

伝承

鶴の飛来

旧旧村合併の際、船津(高野村)東北の山角より雌雄一対の丹頂鶴が法明寺背後の山腹をかすめ、宮脇の諏訪神社のに飛来したため、村繁栄の瑞祥であるとして新村名を鶴ヶ岡としたとされる[20]1876年明治9年)に5ヵ村(現在の大字:高野、鶴ヶ岡、豊郷、盛郷、福居 )ができ、そのとき初めて「鶴ヶ岡」の地名が文献に登場する[9]

巨鹿の退治

美山町佐々里(知井村内の集落)に、諏訪大明神の生まれ変わりとされる甲賀三郎に関連する伝承がある。甲賀三郎を連想する類似の伝承が、知井八幡神社や鶴ヶ岡村にもある。鶴ヶ岡で伝わる内容は次の通り。

“700年頃、大和国に香野太郎、次郎、三郎の兄弟がいた。鹿を追い丹波国の深山に入ったが互いに見失ってしまい、三郎は棚野村(砂木)、太郎は弓削村、次郎は知井村に出て住んだ。三郎は佐々木高綱の娘を娶り、氏を満野に改め、後裔は8家に分かれ、次郎の子孫と合わせて、満野十八姓となった。朝廷は満野三郎に、丹波にいる八岐頭(やまた)の巨鹿を退治するよう命じた。大弓を削り坂道を進むと16本角の大鹿が飛びかかってきた。矢を射て大鎌で斬り殺すと血が流れ溜まった。砂木に定住し狩猟を生業として狩具庫を設けた。”

現地情報

関連

脚注

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