金井下新田遺跡

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金井下新田遺跡 概観
高架は上信自動車道金井バイパス)。
金井下新田遺跡の位置(群馬県内)
金井下新田遺跡
金井下新田
遺跡
榛名山と遺跡の位置

金井下新田遺跡(かないしもしんでんいせき)は、群馬県渋川市金井に所在する金井遺跡群の1つで、縄文時代から中世にかけての複合遺跡[1]2014年平成26年)から始まった発掘調査により、古墳時代後期初頭の榛名山二ツ岳の大噴火で埋没した首長豪族居館跡の遺構など、多くの重要な成果が得られたことで金井東裏遺跡と並んで注目された。出土した遺物は、2025年(令和7年)9月26日に国の重要文化財に指定されている[2]

渋川市金井の金井遺跡群は、榛名山北東山麓に拡がる標高220〜230メートル程の扇状地上に立地し、吾妻川の右岸(西岸)に形成された河岸段丘の段丘崖に面している[3]

古墳時代当時の群馬県域(上毛野地域)は、浅間山や榛名山(二ツ岳)の大規模な噴火に度々見舞われており、当地域には6世紀初頭の榛名山大噴火による「榛名山二ツ岳渋川火山灰」(Hr-FA)と、6世紀中頃の「榛名山二ツ岳伊香保軽石」(Hr-FP)という大量の火山噴出物(テフラ)が降下し、併せて最大2メートル以上となる分厚い堆積層が形成された[4]。榛名山二ツ岳の6世紀初頭の噴火では、現代の発掘調査などにより火砕流を含むHr-FAテフラの堆積が下層から順に「S1」〜「S15」として分層され、およそ15回の噴火と降灰があったことが確認されているが、これにより二ツ岳の北東8.5キロメートルに位置する金井の古墳時代集落は、1回目と2回目の噴火による降灰(S1・S2)の後の3回目の噴火で発生した火砕流(S3)の直撃を受け、瞬く間にテフラに埋没し壊滅したと考えられている[4]

この火砕流で被災した他の同時代遺跡として著名なものに、渋川市の中筋遺跡が知られる。また、Hr-FA降下からおよそ半世紀が経過した6世紀中頃に再び発生した大噴火のHr-FPテフラにより被災した遺跡として、同市黒井峯遺跡が知られる[5]

調査に至る経緯

渋川市内では、関越自動車道渋川伊香保インターチェンジから長野県上信越自動車道までを連絡する地域高規格道路国道353号金井バイパス上信自動車道)、および国道17号渋川西バイパスの建設が行われており、道路敷設予定地域に存在する埋蔵文化財包蔵地について公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団による発掘調査が行われていた。このうち金井下新田遺跡域内を通過する金井バイパスの道路建設部分では、道に沿った細長い調査区が設定され、内部を6区(第1区〜6区)に細分して2014年平成26年)4月1日から2017年(平成29年)9月30日にかけて発掘調査が実施された[6]

また、南側で金井バイパスに接続する渋川西バイパスの部分では、内部を3区(第7区〜9区)に区分して、2018年(平成30年)11月1日~2019年(令和元年)7月31日にかけて発掘調査が実施された[7]

古墳時代の調査成果

前述のように当該地域では、6世紀初頭のHr-FAと、6世紀中頃のHr-FPが、当時の遺構面(生活面)の上に併せて約2メートルの厚さで堆積し、当時の集落を極めて良好な状態で埋没させ保存していた。これにより、金井下新田遺跡の発掘調査に先行して2012年(平成24年)から開始された、北側に隣接する金井東裏遺跡の調査では、甲を着た古墳人など「日本のポンペイ」とも呼ばれる日本考古学史に残る貴重な発見が相次いでいた[8]

南側に隣接する金井下新田遺跡でも、Hr-FA火砕流の流下による6世紀初頭の被災を伝える遺構や遺物の検出が相次いで報告され、調査範囲全域(1区~6区)からは、古墳時代のものとして、竪穴建物76棟(鍛冶工房含む)、掘立柱建物11棟、平地建物7棟、囲い状遺構1基、祭祀遺構7基、土坑43基が検出された[6]

金井東裏遺跡と金井下新田遺跡は、埋蔵文化財包蔵地としての名称や遺跡番号は別かれているが、調査の結果、古墳時代には同一の集落範囲であったことが判明しており、両者を一体と捉えた金井遺跡群という総称も使われている[8]

平地建物遺構

1区では竪穴建物や平地建物が検出されたが、1号平地建物と呼ばれたものは、火砕流の直撃を受けた際に東側に押し倒されるかたちでテフラに埋没しており、屋根材が原形を保ちつつ圧潰した状態で遺存していた[9]

被災した人馬の検出

また1区では、3回目の噴火に伴うS3に飲まれて死亡したとみられる人間2体と、ウマ3頭の遺体(金井馬)が発見された。1区5号竪穴建物では、火砕流堆積物に充填された竪穴の内部から11歳前後とみられる小児の人骨とウマ2頭の骨が検出された。11歳前後の小児は、性別は不明で、人骨自体も風化していたが歯が残存しており、年齢を推定でき「10代の古墳人」と名付けられた[8]

また、6号竪穴建物からは、首飾りを着けた8歳前後の性別不明の人骨と、ウマ1頭の骨が検出された。人骨が首にかけていた首飾りは勾玉管玉を交互に紐に通したもので、玉の配置なども明瞭に遺存していたことから「勾玉の古墳人」と名付けられた[8]

これらの竪穴建物は馬小屋と見られ、10歳前後の人間の子供と、馬が共にいたことから、若年層が幼い頃から馬の飼育に関与していたものと推定された[8]

鍛冶工房

第2区からは、鍛冶工房跡と見られる竪穴建物(5号竪穴建物)が検出された。この竪穴建物は一辺約10メートルの平面正方形の大型竪穴建物で、床面中央に鍛冶炉を持ち、(ふいご)の羽口など鍛冶炉関連の遺物が検出され、鉄器生産を行なっていた痕跡と判明した。6世紀初頭のHr-FAテフラは、この建物の竪穴部が土に埋没した後に降下・堆積していることから、実際にこの鍛冶工房が操業していたのは火山災害前の5世紀後半代と考えられている[10]

首長居館・囲い状遺構

4区から6区・5区[注 1]にまたがる範囲では、集落の有力者(豪族)の居館跡と見られる大規模な施設が検出された。これは、大型の竪穴建物掘立柱建物が立ち並び、その周囲を高さ3メートルの「囲い状遺構」(垣根)で囲っており、囲いの範囲は、北辺54メートル、南辺55.8メートル、東辺48.6メートル、西辺48.6メートルの、平行四辺形を成す範囲と推定された[8][注 2]

垣根は、などの植物の茎をヨシズ(葦簀)状に束ねたものを芯材とし、これを同じく葦のような植物茎を網代編みにした板材によって両側から挟みこんだ3層構造となっており、厚さは20〜30センチメートルあり、横桟を渡して固定し垣根を構築していた。また、クリの木柱を1.8メートル間隔で立て並べており、その残存状況から、高さは3メートルほどであったと推定されている。火砕流の直撃を受け、東方向に押し倒されていた[8]

垣根の内側の首長居館は、小さな垣根で西区画と東区画にわけられており、東区画では、1辺9メートルの大型竪穴建物が居館敷地の中央にあり、その周りに平地建物と見られる掘立柱建物が規格性を持って立ち並んでいた。西区画では剣形や有孔円盤などの石製模造品のほか、などの祭祀系遺物が埋納された状況が検出された。また、西区画南西隅の垣根には、紐に通した状態の臼玉がかけられていた。このため、東区画は首長の生活空間であり、西区画は祭祀空間である事が判明した[8]

なお、検出状況からこの居館は6世紀初頭の榛名山噴火より以前から建物の解体が始まっており、噴火当時には大型竪穴建物の屋根は外され、掘立柱建物は屋根と壁が外され掘立柱のみが残る状態であったと推定されている。金井東裏遺跡で発見された「甲を着た古墳人」は、この集落の首長と目されているが、金井下新田遺跡で検出された居館跡は噴火時点で住居として機能していないことから、「甲を着た古墳人」の使用する居館はさらに別の場所にあったのではないかと考えられている[8]

足跡・馬蹄跡の検出

1区のほか、第4区・5区・6区の東側に位置する3区では、古墳時代当時の地表面を歩くヒトの足跡およびウマ跡が数多く検出された。ヒトの足跡は、5指の形まで鮮明に判る素足のものが多く、複数人分が東の方向を向いていた[8]

人々の足跡に交じって、ウマの蹄(馬蹄)跡も残されていたが、その中には明らかにヒトの足跡と並行するものがあり、「馬飼(うまかい)」と見られる人物に引かれて歩いている様子が看取された。ヒトの足跡とウマの蹄跡の状況から、多くの人々と、馬飼に引かれたウマは共に東へ向かって歩いていたが、ウマが単独で南の方向へ行きかけ、馬飼に連れ戻されている様子なども推定された[8]

足跡は、S1・S2を踏みしめ、S3に覆われていたことから、当時の人々は3回目の壊滅的な噴火の直前、火山灰の振りしきる中を東方の段丘崖方面に向かって逃げていたものと考えられている[8]

またこれらの被災状況は、南方の7・8・9区でも同様であり、S3テフラ到達の直前に避難行動を取る人々の足跡とウマの蹄跡が検出された[7]

弥生・縄文時代の調査成果

金井下新田遺跡では、榛名山噴火で被災した5世紀後半〜6世紀初頭にかけての古墳時代集落が注目されたが、古墳時代の生活面より下層には、弥生時代および縄文時代の生活面が検出され、こちらでも多くの成果があった[7]

古墳時代の生活面と、それより古い年代の遺物包含層を掘り下げて現れた弥生時代の面からは、4区から6区を中心に「礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)」と呼ばれる弥生時代後期に特徴的な、長方形の土坑(川原石)を敷き詰めて墓穴とし、木棺を納める墓制が検出された。また4区の弥生時代中期中葉の生活面では、中期に特徴的な頸の長い壺形土器(長頸壺)をまとめて埋納した、再葬墓とみられる土坑が検出された。弥生時代の竪穴建物は8棟検出された[7]

弥生時代の面をさらに掘り下げると、1区から2区を中心に、高い密度で石囲炉をもつ竪穴建物が46棟分検出され、縄文時代前期と、縄文時代中期の集落跡である事が判明した。特に縄文時代中期の集落は、高い遺物量と遺構量を持ち、吾妻川右岸地域における屈指の規模の縄文集落と判明した[7]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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