高松町 (境港市)
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歴史
高松村は江戸期から1889年(明治22年)の村名で、伯耆国会見郡のうち鳥取藩領[2]。戦国時代の尼子・毛利合戦当時の古伝承があり、かなりの古集落と推定される[3]。宝永元年の境村八幡宮棟札に「竹内村年寄、高松五郎兵衛」の名があり、宝暦12年の同社棟札には「本願主、高松邑武良惣四郎」の名がある[3]。
江戸時代の高松集落は竹内村の支村とされたため庄屋は置かれなかった[4]。享和3年に新田として幕府に届けられ、1869年(明治2年)に領内限りで分村する[2]。村高は『元治郷村帳』71石余、『旧高旧領』71石余、『元治郷村帳』の物成は22石余である[2]。
1871年(明治4年)に鳥取県、1876年(明治9年)に島根県、1881年(明治14年)に再び鳥取県に所属する[2]。1879年(明治12年)の戸数108・人口513[2]。物産は米、麦、甘藷、鰯、魬[2]。1889年(明治22年)、下浜村の大字となる[2]。
高松は、はじめ下浜村、1889年(明治22年)12月から余子村の大字である[2]。明治20年代から、桑栽培・養蚕業が盛んになる[2]。そして綿作・木綿織物生産に代わり、養蚕・製糸業が主産業になる[2]。第二次大戦中、第三一海軍航空廠美保工場や宿舎、余子駅西側には計器工場が建設された[5]。1947年(昭和22年)、余子村・中浜村組合立誠道中学校が航空廠美保工場を改築して開校する[2][5]。1954年(昭和29年)に境港町の町名となる[2]。
高松町は1956年(昭和31年)から境港市の町名である[2]。夕顔・誠道の2住宅団地が造成され、夕顔団地・誠道団地は1975年(昭和50年)に誠道町となる[2]。
苗字
武良は、戦国時代の亀井能登守伝承に登場する古姓氏として知られる[4]。竹内村支村高松の武良について『伯耆志』には「高岡城趾と古松三幹あり。往古武良某此所に居りしと云へり。今村中其裔あり」とある[6]。「大同寺棟札」には竹内村年寄として武良のほか「安部」姓が記載されている[4]。現代の上位三姓は「阿部・武良・佐々木」である[4]。
地名の由来
経済
世帯数と人口
地域
交通
- 鉄道