ぷらいべえと

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『ぷらいべえと』
吉田拓郎カバー・アルバム
リリース
ジャンル ニューミュージック
レーベル フォーライフ
プロデュース 吉田拓郎
チャート最高順位
  • 週間1位オリコン[1]
  • 登場回数24回(オリコン)
  • 売上12.9万枚(オリコン)
  • 1977年度年間23位(オリコン)
吉田拓郎 アルバム 年表
クリスマス
1976年
ぷらいべえと
(1977年)
大いなる人
(1977年)
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ぷらいべえと』は、1977年4月25日に発表された、吉田拓郎の7枚目のスタジオ・アルバムであり、初めてのカバーアルバムである[2][3][4]

もともと本アルバムは制作の予定はなく、拓郎が発案したアルバム『クリスマス』の売上不振により[2][5]フォーライフが巨額の赤字を出した埋め合わせのため発売した[2][5][6]後藤由多加から「会社がやばい。拓郎何とかしてくれ。アルバムが大至急欲しい、何でもいい」などと泣きを入れられたが、既に約束のアルバムはリリースした後で新曲のストックは無く、思案したところボブ・ディランの『セルフ・ポートレート』を思いつき、同じコンセプトに基づいて、他人へ提供した曲と自身の愛唱歌を集めたカバーアルバムの制作を決めた[2][6][7][8]

後述のように批判的な論調が多かったこともあって、カバーアルバムは当時大流行することも無く『ぷらいべえと』の次といえるものは、甲斐よしひろがソロ名義で出した1978年5月のアルバム『翼あるもの』となる[9]

拓郎に次いで、男性ソロアーティストがカバーアルバムで1位を獲得するのは徳永英明の『VOCALIST 3』(2007年)まで30年間待たねばならなかった[3]

レコーディング

時間がないためユイ音楽工房にいたアマチュアミュージシャンを集めて短時間で制作した関係で、スタッフ関係のクレジットが全く記載されていないが[2]青山徹(ギター)とエルトン永田(キーボード)と石山恵三(ベース)が何曲か参加した。ドラムを叩いているのはドラム経験のない内山修だという[6]

スタジオもミュージシャンも時間がなくて押さえられず、毎晩夜中の0時過ぎから朝6時終わりの突貫工事的レコーディング[2][5]で、毎晩眠くて地獄のレコーディングだったという[5]。体調を崩し風邪を引いてしまってもタイトなスケジュールを延期することもできず、鼻声のままレコーディングしたものが数曲あるという。特に「悲しくてやりきれない」の時は鼻声のピークになってしまい、名曲を汚してしまった様で申し訳ない気持ちになったという。曲は全てスタジオレコーディングしたものでデモテープは存在しない[6]

アルバムアートワーク、パッケージ

レコードジャケットも拓郎が週刊誌キャンディーズランちゃんを見てクレヨンで書いたもの[6]で、ランちゃんの回りを木で囲むなどの加工はしているものの『やさしい悪魔』のレコードジャケットの真ん中をくりぬいたものを参考にしたという[6]

レコードジャケットは全体に緑色のため、それに合わせ初版のレコード盤は緑色だった。また初回特典にはポスターが付いた。

批評

専門評論家によるレビュー
レビュー・スコア
出典評価
ニューミュージック白書否定的[10]
あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人否定的[11]
歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39肯定的[12]

本アルバムは2000年代から増えはじめたカバーアルバムの先駆的なもので、現在では考えられないが、当時は"創作力のダウン"や"売らんかな主義"などと酷評された[2][8][10]。また、音楽評論家富澤一誠は「いうなら企画物で、評価の対象にならない。ただ商売としてはうまいなと思っただけ」などと評している[11]

しかしながらメロディ・メーカーとしての才気や[2]ボーカリスト・吉田拓郎としての魅力も発揮したといえる[2][12][13]。またソングライターを基本とするフォークニューミュージック側のアーティストが、歌謡曲をカバーするということは、当時としてはかなり大胆な試みであったといえる[14]

拓郎自身「やっつけ仕事の割にはよく出来た。当時フォーライフには社員が50人いて大半が家庭を持つ人たちで、フォーライフを救わなきゃと思った。必死だったんだろう。若かったから出来た」などと述べている[6]

チャート成績

カバーアルバムとして史上初のオリコン1位を獲得(二週連続)[2][3]。皮肉なことに、この年フォーライフのアルバムで最大のセールスを記録し[2][15]、フォーライフの危機を救った[6]。売れたことに関しては「ボクのファンがこういうの聴きたがっているとは思わなかった。それは読めなかった」と拓郎は話している[6]。パート2を作ってくれという営業サイドからの注文は頑強に断った[6][16]

影響

  • ROLLYは中学生の時、本アルバムを聴いて、拓郎節の際立つ歌唱に驚き、まだ自作曲も1曲も作ってないのに、「自分もいつか他の人に曲を提供することがあったら、こういうアルバムを出したい」とずっと思い続けていたという[4]

収録曲

脚注・出典

関連項目

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