アルフィオ・バシーレ
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| 名前 | ||||||
| 本名 |
アルフィオ・ルベン・バシーレ Alfio Rubén Basile | |||||
| 愛称 | ココ (Coco) | |||||
| ラテン文字 | Alfio BASILE | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1943年11月1日(81歳) | |||||
| 出身地 | バイーア・ブランカ | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1964-1970 |
| 163 | (19) | |||
| 1971-1975 |
| 97 | (4) | |||
| 代表歴 | ||||||
| 1968-1973 |
| 8 | (1) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 1975-1976 |
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| 1976 |
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| 1978 |
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| 1979 |
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| 1980 |
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| 1981 |
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| 1982 |
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| 1982 |
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| 1983 |
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| 1983 |
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| 1984-1986 |
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| 1986-1989 |
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| 1989-1990 |
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| 1991-1994 |
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| 1995 |
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| 1996-1997 |
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| 1998 |
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| 2000-2001 |
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| 2004 |
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| 2005-2006 |
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| 2006-2008 |
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| 2009-2010 |
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| 2012 |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
アルフィオ・バシーレ(Alfio Rubén Basile, 1943年11月1日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州バイアブランカ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。選手時代にアルゼンチン代表であり、また監督としても2度に渡ってアルゼンチン代表を率いた。
選手
地元のベリャ・ビスタからデビュー。1964年から1970年まではラシン・クルブでプレーし、1966年にはプリメーラ・ディビシオンで、1967年にはコパ・リベルタドーレスとインターコンチネンタルカップで優勝した。1971年にはCAウラカンに移籍し、セサル・ルイス・メノッティ監督の下でメトロポリターノ1973を制した。1975年に現役引退した。1968年から1975年にはアルゼンチン代表としてプレーし、8試合出場1得点を記録した。
指導者
初期の指導者経歴
現役引退後には数多くのクラブの指揮を執った。アルゼンチン国内のクラブではCAロサリオ・セントラル、ラシン・クルブ、CAウラカン、CAベレス・サルスフィエルドなどを指揮し、ウルグアイのナシオナル・モンテビデオやスペインのアトレティコ・マドリードでも監督を務めた。
アルゼンチン代表監督(1度目)
1991年にはカルロス・ビラルド監督の後任としてアルゼンチン代表監督に就任。ガブリエル・バティストゥータ、ディエゴ・シメオネ、フェルナンド・レドンドら若手選手を積極的に登用し、1991年と1993年にはコパ・アメリカで2連覇を達成したほか、1992年にはキング・ファド・カップで優勝した。1994 FIFAワールドカップ・南米予選は10ヶ国による総当たり戦ではなく、4ヶ国[1] と5ヶ国の2グループによるリーグ戦で行われたが、コロンビア戦で0-5の惨敗を喫したため、一度は代表引退していたベテランのディエゴ・マラドーナを招集せざるを得なかった。アルゼンチンはコロンビアに次ぐ2位となり、オーストラリア(オセアニア地区)との大陸間プレーオフに勝利して本大会出場を決めた。
アメリカで開催された1994 FIFAワールドカップ本大会では、グループリーグでナイジェリア、ブルガリア、ギリシャと同組となった。初戦のギリシャ戦はバティストゥータのハットトリックで4-0と快勝し、2得点を挙げたクラウディオ・カニーヒアの活躍でナイジェリア戦にも勝利したが、ナイジェリア戦後のドーピング検査でマラドーナの尿から禁止薬物が検出され、マラドーナは大会からの即時追放処分を受けた。3戦目のブルガリア戦には0-2で敗れ、ブルガリアやナイジェリアと同勝ち点の3位に終わったが、3位国同士の成績で最上位となって決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦ではルーマニアと対戦し、2-3で敗れて大会からの敗退が決定した。大会後に代表監督辞任を発表した[2]。
ボカ(1度目)
CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ、メキシコのクルブ・アメリカ、CAコロンなどで采配を振るったが、成功の度合いは様々だった。2005年7月にはボカ・ジュニアーズ監督に就任し、1ヶ月後にはレコパ・スダメリカーナのタイトルを獲得した。アペルトゥーラ2005では、約30年の指導者キャリアで初のプリメーラ・ディビシオン優勝を飾った。この4日後にはコパ・スダメリカーナ決勝でUNAMプーマス(メキシコ)を破って優勝し、就任後の半年で3個のトロフィーを獲得した。
アルゼンチン代表監督(2度目)
2006年7月、2006 FIFAワールドカップ後に退任したホセ・ペケルマン監督の後任として、再びアルゼンチン代表監督に就任した。9月14日まではボカ・ジュニアーズも指揮し、レコパ・スダメリカーナではサンパウロFC(ブラジル)を破って2連覇を果たした。バシーレはイングランド・プレミアリーグよりもイタリア・セリエAやスペイン・リーガ・エスパニョーラを好み、マンチェスター・ユナイテッドFCでプレーしていたカルロス・テベスやリヴァプールFCでプレーしていたハビエル・マスチェラーノには、イタリアへのクラブへの移籍を勧め、「たとえ2部リーグでプレーすることになろうとも、(イングランドよりも)ユヴェントスFCでプレーする方が良い」とまで主張した[3]。2008年10月15日、2010 FIFAワールドカップ・南米予選でマルセロ・ビエルサ監督率いるチリと対戦したが、公式戦で初めてチリに敗れ、翌日に代表監督の辞任を発表した[4]。紆余曲折あったものの、バシーレの後任の代表監督にはマラドーナが就任した[5]。
ボカ(2度目)とラシン(3度目)
2009年7月1日、カルロス・イスチア監督の後任としてボカ・ジュニアーズ監督に就任した[6]。しかし、マル・デル・プラタで行われたサマートーナメントではライバルのCAリーベル・プレートに1-3で敗れ、アペルトゥーラ2009ではコパ・リベルタドーレスの出場権獲得に失敗した。成績不振により、2010年1月21日に辞任した[7]。2011年12月26日、辞任したディエゴ・シメオネ監督の後任としてラシン・クルブ監督に就任(3度目)した[8]。
所属クラブ
選手歴
指導歴
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