コルチタイ
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忽剌班胡
1368年(至正28年/洪武元年)、朱元璋(洪武帝)は中国本土の大部分を制圧して明朝を建国したが、これを以て大元ウルスが崩壊したわけではなく、後世に北元と呼ばれる残存勢力がモンゴル高原を中心に健在であった。しかし、1388年(洪武21年)にウスハル・ハーンが弑逆されるという事件が起こると、西方のオイラトが擁立するアリクブケ家のジョリクト・ハーンが即位し、モンゴル高原は極度の混乱状態に陥った。このような中で、モンゴル帝国建国以来の名家であるオッチギン・ウルスの当主、遼王アジャシュリが明朝に降り、その配下の勢力は三分割されて朶顔衛・泰寧衛・福余衛の名を与えられた(ウリヤンハイ三衛)。もっとも、アジャシュリの明朝への投降は一時的なものに過ぎず、すぐに明朝から背いたアジャシュリは明側の史料で言及されなくなってしまう。
15世紀初頭、靖難の変を経て即位した永楽帝は積極的な対外進出策を取り、1404年(永楽2年)に約十年ぶりに三衛に使者を派遣した[1][2]。この時始めて登場するのが忽剌班胡(hūlàbānhú)という人物で、泰寧衛の代表として都督に任命された[3][1][2]。忽剌班胡の出自は全く不明であるが、三衛の首領の中で最も下位として名を挙げられており[4]、少なくとも遼王家(オッチギン王家)にかかる高貴な出自ではなかったようである[2]。恐らく、アジャシュリとその一族が洪武年間より引き続いて明朝と敵対的な立場にあったために永楽帝から公認されず、アジャシュリよりも地位は低いが明朝に従順な忽剌班胡に官爵が与えられたものと推定されている[5]。
泰寧衛とオイラトの対立
忽剌班胡についての事績はほとんど記録がなく、1407年(永楽5年)に息子の阿剌哈を使臣として明朝に派遣したことなどが記録されているに過ぎない[6][2]。一方で、忽剌班胡のもう一人の息子のコルチダイ(火児赤台/Qorčitai)については比較的記録が残っており、1427年(宣徳2年)11月に忽剌班胡の地位を継承したとの記録がある[7]。以後、泰寧衛掌衛事都督僉事のジョチ(拙赤)・都指揮使のテギン(討勤)・トゴチ(脱火赤)・都指揮同知のゲゲン・テムル(隔干帖木児)・ナガチュ(納哈出)らとともに、1440年(正統5年)[8]・1441年(正統6年)[9][10]・1445年(正統10年)[11]に朝貢を繰り返した。
この間、オイラトのトゴン・エセン父子によってモンゴル高原は再統一され、ウリヤンハイ三衛もオイラトの勢力下に入っていた[12]。しかし、三衛のより完全な制圧を狙っていたエセンは1445年(正統10年)には「三衛が(かつてオイラトと対立していた)アルクタイの子孫を匿っている」ことを口実に出兵を窺っており、三衛との対立を深めつつあった[13]。1446年(正統11年)6月には「オイラトのエセンが朝貢のため派遣した乞児吉歹が、泰寧衛に属する迭的谷らが兵を集めてオイラトの朝貢使節を阻もうとしていることを察知し、迭的谷を捕らえて明朝朝廷に差し出す」事件があり、これを受けて明朝は泰寧衛掌衛事都督僉事のジョチ(拙赤)・都指揮使のテギン(討勤)・トゴチ(脱火赤)・都指揮同知のゲゲン・テムル(隔干帖木児)・都指揮僉事のコルチタイ(火児赤台)・ナガチュ(納哈出)らを咎める勅を下している[14]。果たして同年末にはエセンによる三衛への侵攻が行われ、これ以後コルチタイの動向は長らく不明となる。
晩年
エセンの三衛侵攻から15年以上経ち、エセンが亡くなって6年目の1460年(天順4年)正月、「泰寧衛都指揮」のコルチタイは朶顔衛都督のアルキマルとともに明朝に使者を派遣した[15][2]。かつてコルチタイが明朝に派遣した「指揮完者禿(オルジェイトゥ)」と1454年(景泰5年)10月に朶顔衛のトゥルゲンが派遣した「頭目完者禿」[16]は同一人物ではないかと見られており、恐らくエセンの攻撃によって源住地を逐われたコルチタイは朶顔衛に身を寄せてモンゴル高原の内乱を避けていたようである[2]。
しかしこれ以後コルチタイに関する記録は全く見られず、まもなく死去したようである[2]。その親族・後継者に関する記録もなく、忽剌班胡家に関する記録はコルチタイの退場を以てたどれなくなる[2]。既に天順年間にはゲゲン・テムルとウネ・テムル兄弟が泰寧衛を代表する首領として活躍しており、このころ忽剌班胡家は没落してしまっていたようである[2]。
脚注
- 1 2 和田 1959, pp. 139–140.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 李 2006, p. 13.
- ↑ 『明太宗実録』永楽二年四月己丑(十九日),「指揮蕭上都等自兀良哈還、韃靼頭目脱児火察・哈児兀歹等二百九十四人随上都等来朝貢馬。命脱児火察為左軍都督府都督僉事、哈児兀歹為都指揮同知・掌朶顔衛事、安出及土不申倶為都指揮僉事・掌福餘衛事、忽剌班胡為都指揮僉事・掌泰寧衛事、餘及所挙未至者総三百五十七人、各授指揮千百戸等官。……」
- ↑ 例えば、朶顔衛のトルクチャルは洪武22年のときはアジャシュリの下位として名を挙げられているのに対し、永楽2年のときには忽剌班胡の方がトルクチャルよりも下位で名を挙げられている。
- ↑ 和田 1959, pp. 192–193.
- ↑ 『明太宗実録』永楽五年三月甲戌(二十日),「……泰寧衛都指揮僉事忽剌班胡遣子阿剌哈率所部六十人来朝貢馬。賜鈔幣襲衣遣還」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳二年十一月辛卯(七日),「命故泰寧衛都指揮僉事忽剌班胡子火児赤台襲職」
- ↑ 『明英宗実録』正統五年十月乙酉(十六日),「朶顔衛都指揮同知朶羅干遣指揮把蘭、泰寧衛都指揮僉事火児赤台遣指揮完者禿等倶来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年正月甲子(二十六日),「賜赤斤蒙古衛指揮切領哥、泰寧衛都指揮隔干帖木児・都指揮僉事火児赤台・都指揮哈散・阿赤不花・頭目安察、朶顔衛都指揮使完者帖木児・指揮僉事苦列児・都指揮同知朶羅干・頭目都連帖木児・乃児不花、福餘衛都指揮同知倒斤・指揮僉事帖木児・阿兀歹・頭目伯台綵幣表裏有差。并賜勅諭之」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十二月丁酉(五日),「泰寧衛都督僉事拙赤・都指揮使火脱赤・討勤・都指揮同知隔干帖木児・都指揮僉事納哈出・火児赤台、福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事歹都・申帖干、朶顔衛都指揮使完者帖木児・都指揮同知倒斤・朶羅干、建州左衛都指揮李張家等、各遣使来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差……」
- ↑ 『明英宗実録』正統十年十月壬戌(二十二日),「福餘衛都指揮安出遣指揮咬納、泰寧衛都督拙赤遣指揮委労児、都指揮火児赤台遣指揮完者禿、沙州衛千戸各洛哥等来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 和田 1959, p. 288.
- ↑ 和田 1959, pp. 288–289.
- ↑ 『明英宗実録』正統十一年六月庚子(四日),「勅諭泰寧衛掌衛事都督僉事拙赤・都指揮使討勤・火脱赤・都指揮同知隔干帖木児・都指揮僉事火児赤台・納哈出及大小頭目人等曰、今得爾等遣頭目帖木児奏称、本衛部属迭的谷等、先帯家小往忽克爾帖里温囲猟、被瓦剌也先朝貢使臣乞児吉歹等擒拏解京、乞朝廷給還完聚。然去歳乞児吉歹等奏、迭的谷等糾集人衆、在途邀劫往来使臣、朝廷已明正其罪、及論乞児吉歹功次、陞官職、賞綵幣、以旌其忠。蓋賞善誅悪、国家大法、必出至公、乃合天道。爾等乃為迭的谷等曲詞請憐、使悪者效尤、良善受害、果天道乎。況爾等世受朝命、掌管衛事、部属中為悪者屡勅挨捕、未常獲解一人。今乞児吉歹等係遠方頭目、能効忠捕賊、豈可置之不問乎。因帖木児回、特勅爾等、自今宜体朕意、宣布朝廷法度、禁戒頭目人民各安生業、毋作非為、庶保身家。爾又奏、若尋見阿魯台孫男送来、亦見爾等恤孤済急之意。朝廷必挙賞功之典、爾等其欽承毋忽」
- ↑ 『明英宗実録』天順四年正月丁未(二十九日),「朝鮮国王李瑈遣陪臣咸禹治等、泰寧衛都指揮火児赤台等、肥河衛野人都督孛里格等、朶顔衛都督阿児乞蛮等、建州衛女直都督董山等、兀者衛野人女直都指揮歹都等……来朝貢馬及方物。賜宴并綵幣表裏等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』景泰五年十月乙巳(二十七日),「……朶顔衛指揮朶羅干遣頭目完者禿等、雲南定遠県土官巡検楊霖遣男楊啓等来朝貢馬。賜鈔綵幣表裏有差」
参考文献
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。
- 李艶潔「明代泰寧衛首領世系変遷」『内蒙古大学学報(人文社会科学版)』第38巻、2006年11月。
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