トルクチャル

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トルクチャルモンゴル語: Torqčar、生没年不詳)は、14世紀末から15世紀初頭にかけての朶顔衛ウリヤンハイ)の領主。明朝より始めて朶顔衛の領主と認められ、官職(指揮同知・都督僉事)を授けられた人物であり、明代を通じて朶顔衛の領主はトルクチャルの子孫から輩出され続け、清代のハラチン旗にまで引き継がれた。

トルクチャルの属する朶顔衛はウリヤンハイ人によって構成されており、その子孫は清代に入ってジョソト盟ハラチン右翼旗左翼旗中旗を形成した。これらトルクチャルの子孫である、ハラチン旗の領主はモンゴル帝国時代にチンギス・カンに仕えて活躍した、ウリヤンハイ人のジェルメの末裔を称している[1]

ただし、ジェルメの子のイェスン・テエはモンケ・カアン即位時の政変に巻き込まれて処刑されており、その子孫については史料上で確認できない[2]。そのため、中国人研究者の額徳はトルクチャルがジェルメではなく、チンギス・カンの甥のアルチダイの補佐で、同じくウリヤンハイ人であったチャウルカンの子孫ではないかと論じている[2]。また額徳は、ナヤン・カダアンの乱においてアルチダイの息子のカダアン・トゥルゲンが叛乱に与して討伐された後、大元ウルスに接収された地に朶顔衛の前身である元代の「朶因温都児兀良哈千戸所」が設置されたのではないかと推定している[3]

1388年(洪武21年)4月、藍玉率いる明軍がブイル・ノールの戦いでウスハル・ハーン率いるモンゴル軍を撃ち破り、ウスハル・ハーンが敗走中にイェスデルによって殺されるという大事件が起こった。これによって混乱状態に陥ったモンゴル高原の中で、モンゴル帝国最初期からの有力王家であるオッチギン・ウルスの当主アジャシュリは同年11月に明朝に投降を申し出るに至った[4]。これを受けた明朝は、1389年(洪武22年)5月にアジャシュリに使者を派遣し、その勢力を泰寧・福余・朶顔の三衛に分けてそれぞれの領主に官爵を授与した。アジャシュリ自身は泰寧衛の指揮使とされ、海撒男答渓は福余衛の指揮同知とされ、最後に朶顔衛の指揮同知とされたのがトルクチャル(脱魯忽察児)であった[5][6]。この時設置された泰寧・福余・朶顔の三衛は、後世「朶顔三衛」もしくは「ウリヤンハイ三衛」と総称されるようになる。

これ以後、三衛はしばらく明側の史料で言及されなくなるが、靖難の変を経て新たに即位した永楽帝は、1404年(永楽2年)に改めて三衛の首長に官爵を授与した[7][8]。この時、朶顔衛ではトルクチャルが左軍都督府都督僉事に、泰寧衛では忽剌班胡が都指揮僉事に、福余衛では安出とトゥブシン(土不申)が都指揮僉事に、それぞれ任命されている。洪武22年の時と比較すると朶顔衛のトルクチャルのみが継続して官爵が与えられているが、他はみな新たな者が登用されている[8]。これは単純に代替わりがあったということではなく、恐らくは洪武22年の時と違って明朝に従順な者にのみ明朝の官職が与えられたものと考えられている[8]。そのため、トルクチャルは明朝に忠順であったとみられ、官爵から見ても指揮同知から都督僉事へと大幅な昇進がなされている[8]

これ以後もトルクチャルは朶顔衛の領主として健在で、1409年(永楽7年)8月・1413年(永楽11年)9月に明朝に使者を派遣した記録がある[9][10]

明側が宣徳帝の治世に入った頃より、朶顔衛ではオルジェイ・テムル(完者帖木児)という頭目が現れ始めるが、この人物は「トルクチャルの子(脱児火察子)」であったと伝えられる[11][12]。一方、1433年(宣徳8年)にはトルクチャルがもう一人の息子のトゥルゲン(朶羅干)とともに使者を派遣し、息子に地位を襲職させることを請うたので、明朝はこれを認めてトゥルゲンを都指揮同知に任じた[13]。これ以後、朶顔衛支配者の家系はオルジェイ・テムル系とトゥルゲンの二系統に分かれていったようで、明末に編纂された『盧龍塞略』でも不完全ながら二つの家系の系譜が伝えられている[14]

『華夷訳語』「脱児豁察児書」

脚注

参考文献

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