ソビエト連邦の歴史

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本項では、ソビエト連邦歴史について述べる。

ソビエト連邦の構成国

1917年ロシア革命では、2月革命によってロシア皇帝ニコライ2世が退位してロマノフ朝ロシア帝国が終焉した。さらに同年ボリシェヴィキによる十月革命(クーデターとも指摘される[1][2][3])によってロシア共産党による一党独裁国家ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が誕生した[4]。これは、世界初の社会主義国家として知られ、後のソビエト連邦の基礎となった。およそ5年続いたロシア内戦の後、1922年12月30日に開かれた第1回全連合ソビエト大会ロシア語版においてソビエト連邦結成条約ロシア語版が締結されたことにより、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生した。

1924年1月には指導部を率いたウラジーミル・レーニンが早逝、その頃からはヨシフ・スターリンレフ・トロツキーとのあいだで起きていた主導権爭いが表面に浮き彫りはじめ、トロツキーの側が排除されることでスターリンの有利に終わった。1936年新憲法が制定されると、スターリンは大粛清を行い基盤をさらに強化する。この時代に全土規模の工業化が進められ、世界恐慌の影響さえも受けずにいたソビエト連邦は、1941年ナチス・ドイツの奇襲によって第二次世界大戦へ参戦し、1945年ドイツが降伏するとソビエト連邦は東欧一帯をその支配下に置き、周辺に社会主義国を樹立させ、第二次世界大戦の同盟国であったアメリカ合衆国世界を二分した。

冷戦時代の  NATO諸国 および   ワルシャワ条約機構の陣営図

スターリンの死をきっかけに、ソビエト連邦は官民共同の刷新、躍進が行われることとなった。個人崇拝批判平和共存自治共和国の復権はいずれも50年代に成し遂げられたものであり、1960年代には81カ国共産党・労働者党代表者会議をモスクワで開催、米ソで競争を繰り広げた宇宙開発では世界初の有人宇宙飛行の成功を収めた。しかし、フルシチョフに続く四半世紀の間のソビエト連邦は、支配強化と経済停滞を経験する。1968年チェコスロヴァキア侵攻1979年アフガニスタン侵攻は、ソビエト連邦と親善にある社会主義諸国に激震が走り、また、当時の最高指導者レオニード・ブレジネフ社会主義全体の利益のための一国の主権制限を事実上容認したことによって、アルバニアワルシャワ条約機構脱退、中ソ国境紛争などを招いた。しかし、ソビエト連邦は同時期にアフリカへの関与を強め、アンゴラの独立モザンビークの独立を支援した。これら諸国に対する援助は莫大なものになり、停滞するソ連経済を圧迫することとなる。

1980年、東欧はポーランド反乱が発生し、チェコスロヴァキアのような武力介入こそはなかったものの、ソビエト連邦は激しい干渉を行い鎮圧する。ほどなくユーリ・アンドロポフによる支配へ替わり、ソビエト連邦の中では汚職撲滅が盛んとなる。やがて自身の基盤を安定させたアンドロポフだが、病に侵された身体は激務によって一層の衰弱を起こし死亡。1984年にアンドロポフの後任としてコンスタンティン・チェルネンコが政権を握ったが、こちらも老齢であったため1年も持たずに亡くなった。

戒厳令下のポーランド

1985年ミハイル・ゴルバチョフが55歳の若さで最高指導者に君臨すると、さかんな内政や外交への改革政策などでその手腕を表し始める。当時よりソ連各地で事故が起こっていたことに不満を抱いていたゴルバチョフは、1986年チェルノブイリ原子力発電所事故で早急の改革を決断。グラスノスチペレストロイカといった改革が進められた。しかしこの改革は、中央指導部、そして地方指導部では警戒を招くこととなり、後のゴルバチョフが改革派・保守派両側から挟まれる原因にもなった。外交面では1987年以降、積極的に冷戦緩和へと動き始め、アメリカとの中距離核戦力全廃条約締結、ドイツ統一条約への根回し、マルタ会談ではソビエト連邦は冷戦の終結を宣言した。

事故後のチェルノブイリ4号炉

外交面で成果を収めたソビエト連邦であったが、内政では1988年以降、ソビエト連邦を構成するエストニアが主権宣言を採択したことにより他の構成国もこれに続いて主権を宣言する事態に発展。その後も、ソ連中央と構成国との軋轢、ソビエト連邦以前の歴史問題を発端とした構成国と構成国との衝突は激化する一方で、連邦の存在そのものが大きく問われることとなる。

1991年には、ソビエト連邦という機構そのものを見直すために1922年連邦条約に替わる新連邦条約が締結されるはずであったが、改革派とともにゴルバチョフとの関係が険悪であった保守派によって中断されてしまう。その後、構成国は総じてソビエト連邦から離脱することを決め、同年12月ロシアウクライナ白ロシアの三国が独立国家共同体創設合意(またはアルマ・アタ宣言)によりソビエト連邦存続の可能性は完全に途絶えてしまう。12月25日、ゴルバチョフは自身の辞任を表明、翌26日にソビエト連邦の存在の終了は決議され、69年の歴史に幕を下した。

連邦を構成していた諸国はいずれも主権国家としてそれぞれに道を進むも、急激な変化による情勢の混乱は避けられなかった。ロシアでは1993年、新憲法制定をめぐって大統領と最高会議が衝突タジキスタンでは独立から1997年までにイスラーム勢力との内戦アルメニアアゼルバイジャンは、両国の間に位置するナゴルノ・カラバフをめぐって戦争状態に陥り、現在に続く対立関係がある。

※ 本稿では、1918年2月1日より日付はグレゴリオ暦による。

ソビエト連邦の形成まで

血の日曜日事件

1月9日早朝のナルバ凱旋門

1917年の二度にわたる革命の総稽古であり、それなしには十月革命の成功は考えられないと言われる第一次ロシア革命の勃発の合図となったのが血の日曜日事件である[5]

帝政崩壊後の情勢

1917年アレクサンドル・ケレンスキーらの手によって2月革命が発生し、臨時政府ロシア帝国に変わってロシア帝国全土を支配した。これにより1598年動乱時代から1613年ロマノフ朝創設から続いた歴史はロシア皇帝ニコライ2世が退位したことで、ロシア帝国の幕が閉じられることとなった。また、臨時政府戦争継続を訴え、これが十月革命に繋がった。また、政治犯釈放し、ウラジーミル・レーニンヨシフ・スターリンレフ・トロツキーなどを釈放した。また、ロシア帝国軍医のこんな言葉が残っている。

十月革命

ペトログラードの武装蜂起

スモーリヌイ女学院[注 1]

10月24日[注 2]午前5時半、臨時政府の側にある士官学校生徒の一隊は『ラボーチイ・プーチ[注 3] 』の印刷所に突入し、あらゆる機材および新聞を破壊・強奪した。それとともに臨時政府はペトログラード軍事革命委員会コミッサールと委員を逮捕し、ボリシェヴィキ本部の置かれるスモーリヌイ女学院を占領するよう命令、午後にはボリシェヴィキ本部(スモーリヌイ)の置かれる地区の労働者を逃すため、接続するニコラエフスキー橋、ドヴォルツォヴィ橋及びリテイヌイ橋の往来を解放を決定した[6]

武装蜂起の準備を終えつつあったボリシェヴィキ内部では、印刷所の占拠、軍事革命委員の一斉逮捕の報が入り次第、すぐさま制圧された印刷所に警備隊を派遣し『ラボーチイ・プーチ』の発行を再開させるよう同委員会へ委任した[注 4]。委任を受けた委員会は、午前10時までに印刷所へ部隊を派遣させる。部隊の迅速な作業により1時間も経たずに再稼働した印刷所は、早速記事を発行する。発行した記事には、「臨時政府を打ち倒せ!」「全権力をソビエトへ!」の見出しがおどった。

1920年代

1930年代

新憲法の制定へ

1936年12月5日に始まった第8回全連合ソビエト大会ロシア語版は、カリーニン中央委員会幹部会議長の宣言をもって開かれた。宣言のなかでは、1918年ソビエト=ロシア憲法施行以降にソビエト政権が採択した個々の決議[注 5]が1924年憲法に明記されなかったこと、これらの決議を新憲法の制定をもって明記することを唱える。

スターリンの大粛清

死刑執行直前のジノヴィエフのマグショット。

1940年代スターリンによる大粛清により右翼反対派左翼反対派などのオールド・ボリシェヴィキソ連軍が粛清され、ソ連軍は戦力が減少していた。また、レーニン側近レフ・トロツキー(刺客による暗殺英語版)やコミンテルン議長グリゴリー・ジノヴィエフスターリン側近レフ・カーメネフNKVD長官ヤゴーダ、赤いナポレオンと言われ、ポーランド・ソビエト戦争で活躍したミハイル・トハチェフスキーなどスターリンの政敵が粛清された。

1940年代

1939年9月1日、第二次世界大戦が始まると、バルト三国併合を要求し、バルト諸国の占領を行った。また1940年ナチスドイツに匹敵する軍備増強を行った赤軍自国の警備隊がフィンランドから攻撃を受けたとしてフィンランドへ外交官ヴャチェスラフ・モロトフが最後通帳を突きつけると、フィンランドがそれを拒否。その後 赤軍がフィンランドに侵攻し、冬戦争が開戦する。

冬戦争の辛勝

1939年赤軍レニングラード軍管区キリル・メレツコフ大将を中心とするフィンランド軍よりも3倍の兵力を持つ赤軍が侵攻を開始した。だが12月12日、赤軍が初めてフィンランド軍の反撃により大規模な損害を負った。そして、この戦いからフィンランドの徹底した抗戦が始まるようになる。(トルヴァヤルヴィの戦い) その後フィンランド軍は地形を生かした戦術やフィンランド軍元帥マンネルヘイムが築き上げたマンネルヘイム線赤軍兵站を破壊するためのモッティ戦術装備鹵獲などの戦術に苦しめられたが、マンネルヘイム線兵力で突破し、1940年3月にフィンランドと和平条約を取り付けることに成功した。また、この条約により、フィンランドの工業地帯カレリアを獲得することに成功した。

MR協定の破棄から大祖国戦争へ

モロトフ・リッベントロップ協定によってヨーロッパは分割され、ドイツはイギリスに目を向け、アシカ作戦イギリス本土空襲を計画・実行したが、イギリスを攻略することが出来ず、その代わり冬戦争でフィンランド相手に苦戦したソ連に侵攻を開始する。

大祖国戦争

国家防衛委員会の設立

1941年6月22日、突如ドイツがソ連に侵攻を開始。ここに大祖国戦争が始まる。これにともない、1941年6月30日、スターリンは政府の中枢を集め、ソ連国家防衛委員会を設立した。設立初期の委員は、ヴャチェスラフ・モロトフヨシフ・スターリンゲオルギー・マレンコフクリメント・ヴォロシーロフラヴレンチー・ベリヤなどが就いた。

焦土作戦と公然な撤退

1941年大祖国戦争が始まるとウクライナ白ロシアバルト三国(リトアニアエストニアラトビア)など最前線では焦土作戦が実行された。穀物工場農業機械などは出来る限りウラルシベリアに移転させ、その後鉄道網を破壊した。

ソ連国防委員令第227号

スターリングラード攻防戦

赤軍の戦術・戦略的完成

バグラチオン作戦の縦深攻撃

戦争の終結

フレンスブルク政府の降伏

1945年 ドイツ国首都ベルリンに突入したソ連軍は、ヴァイトリング大将率いるヴァイクセル軍集団中央軍集団(大半は武装親衛隊市民軍一般親衛隊)を降伏させ、その後プラハに突入し占領すると、カール・デーニッツ率いるフレンスブルク政府は降伏を受け入れた。その後、ドイツは降伏文章に署名し、ヨーロッパの戦争は終戦した。

ドイツの分割

5月9日、フレンスブルク政府が降伏すると、ヤルタ会談の取り決めに従い、ドイツの最高権力を連合国に委譲した。(連合国軍政下ドイツ)また、ソビエト連邦統治下のドイツ東ドイツとして東側諸国として独立させ、フランスアメリカイギリスザールラント(1957年)の占領地域を統一し、西側諸国に所属する西ドイツを独立させた。

1950年代

1940年代、ドイツとの独ソ戦を勝利したソビエト連邦は、COMECONコミンフォルムなどにより、完全に東欧諸国経済的、軍事的に社会主義に陥れた。また、この年代から核開発競争が本格的にスタートし、米ソ対立更にが深まることとなる。

スターリンの死

その後の権力争い

1960年代

1960年代のソビエト連邦は、各国共産党もしくは労働党が一堂に会した81カ国共産党・労働者党代表者会議を主催し(1960年)、アメリカとの競争の末に人類初の有人宇宙飛行を成功させる(1961年)。栄華を極めた1960年代の前半期である一方、その後半では旧機構への激しい回帰が始まり、フルシチョフ政権とは正反対の姿勢へと転じる。

ボストーク1号

世界初の有人宇宙飛行

1961年4月12日ユーリイ・ガガーリンを乗せたボストーク1号(Восток-1)は、バイコヌール宇宙基地より発射された。この機体は発射からおよそ10分を経て大気圏を突破し、地球を丸一周する。

飛行成功から1年を迎える1962年4月9日、最高会議幹部会はこの日を宇宙飛行士の日と定めた[7]

キューバ危機の発生

旧機構への回帰

フルシチョフの電撃辞職

1964年10月12日アブハジアピツンダで保養を受けているフルシチョフに、臨時召集の一報が入る。この一報はブレジネフからのものであり、フルシチョフはすぐさまモスクワへ帰った。

総会におけるフルシチョフの解任の是非[8]
名前 役職 是非 演説の概要
1964年10月13日(初日)
ペトロ・シェレスト ウクライナ党第一書記 賛成 産業・農業問題を中心に党機関の現地活動
アレクサンドル・シェレーピン 党中央委員会書記 賛成 ニキータ・フルシチョフの体制
アンドレイ・キリレンコ 党中央委員会政治局員 賛成 レーニン主義および集団統治の原則からの造反
キリル・マズロフ 最高会議幹部会議員 賛成 人格崇拝及びカザフ共和国の処女地問題
L.エフィモフ 党中央委員会政治局員 賛成 党規約違反
ヴァシリー・ムジャバナゼ グルジア党第一書記 賛成 諸社会主義国指導者への無粋な振る舞い
ミハイル・スースロフ 党中央委員会書記 賛成 フルシチョフ個人崇拝の形成
ヴィクトル・グリシン 全ソ労働組合中央評議会議長 賛成 感情的な性格
1964年10月14日(2日目)
ドミトリー・ポリャンスキー 党中央委員会政治局員 賛成 自制心の喪失から来る行動が国家への不利益
アレクセイ・コスイギン 閣僚会議第一副議長 賛成 人格崇拝及び政治局員の過労創出
アナスタス・ミコヤン 最高会議幹部会議長 反対 フルシチョフの長所を述べ再度の機会を要望
ニコライ・ポドゴルヌイ 党中央委員会政治局員 賛成 ミコヤン演説の非難及び人格崇拝の非難

3日にわたる総会の末、フルシチョフは自発的にあらゆる役職から辞任する[9][8]

ソ連共産党23回大会

ブレジネフの第一書記就任後初となる1966年ソ連共産党第23回大会ロシア語版では、フルシチョフの外交政策「平和共存」を踏襲したが、内政においてはフルシチョフの施策を否定した[10]。すなわち、この大会ではフルシチョフ時代に改組された党機関とソ連執行機関を旧に復するとともに、党規約をも改正して政治局の名称を復活し、書記長制へと回帰したのである。

1970年代

1970年代1960年代のソビエト連邦の栄華が完全に終わりを迎えた頃だった。宇宙開発競争ではアメリカ合衆国に完全に遅れをとり、アポロ11号による月面着陸が成功してしまった。また、中央アジアではアフガニスタン侵攻が始まり、ソビエトの財政を圧迫した。また、オイルショックにより、石炭天然ガスによってエネルギーを輸出していたが、バグー油田の重要度が増し、石油依存の経済体制にて息を吹き返したが、第二次オイルショックにより石油価格が低下し、石油依存体制となっていたソ連に多きな打撃を受けた。

東欧諸国の対応による緊張増加

1960年代、当時まで西側諸国との緊張緩和政策を進めていたニキータ・フルシチョフが解任されると、新書記長としてブレジネフが書記長の座に就く。書記長として就任してすぐ、1969年のチェコスロバキア侵攻(プラハの春)に対する強硬的な姿勢が西側諸国との関係の悪化を招いた。(モスクワ協定スロバキア語版)

アフガニスタン侵攻による極度の緊張増加

1980年代

1980年代の10年間に起こった多くの事象はソビエト連邦という存在そのものの終焉に近づかせた。1980年アレクセイ・コスイギンの死から始まった世代交代、ソ連外交の転換点の一つとなる大韓航空機撃墜事件1983年)、ミハイル・ゴルバチョフの就任(1985年)。これら前半期の出来事に加え、1980年代後半にはチェルノブイリ原子力発電所事故1986年)、中距離核戦力全廃条約1987年)、ペレストロイカ1988年)、マルタ会談1989年)がそれぞれソ連邦を大きく揺るがすこととなる。

一つの世代の終焉

1980年12月18日アレクセイ・コスイギンの死と、1982年1月15日ミハイル・スースロフ第二書記、そして同年11月10日のブレジネフ書記長の死は、ソビエト連邦を治めた重役の死のみにならず、ポスト・フルシチョフという一つの世代が過ぎ去ったことを意味した[11]。3人はいずれもフルシチョフ政権において党中央へと出世し、その裏でフルシチョフの解任計画を立案したのである。

グルジアの異端的実験

グルジア共和国書記長エドゥアルド・シェワルナゼが1979年に同国共産党へ置いた世論センターは、グルジア国土における事業の質を監視し、民衆からの不満な評価をもらった高官を解職するのに役立った[12]。その後にシュワルナゼが行った政策というのは、企業家の精神を有効に活用するための企業の自主管理、市場関係に基づいた価格設定、小規模企業の家族経営、闇企業の合法化などであり[13]、さらには文化芸術、報道全般の統制も緩める。

連邦の終焉

詳細は「ソビエト連邦の崩壊」を参照

諸国の情勢

年表

ソビエト連邦の歴史のうちに重要な出来事を列挙していく。

1917年

1918年

1919年

1920年

1921年

1922年
1923年
1924年
1925年
  • 1月20日 日本との国交を樹立、ならびに北サハリンの返還。
  • 5月13日 第3回全連合ソビエト大会(20日まで)。
1927年
1928年
1929年
1930年
1931年
  • 3月8日 第6回全連合ソビエト大会開会(17日まで)。
1932年
1933年
1934年
1935年
  • 1月28日 第7回全連合ソビエト大会開会(2月6日まで)。
1936年
1937年
1938年
1939年
1940年
1941年
1942年

11月23日 スターリングラード攻防戦第6軍包囲

1943年

8月27日 史上最大の戦車戦とも言われるクルスクの戦いで勝利。反抗作戦へ転じる

1944年

6月22日 バグラチオン作戦が開始。現ポーランドベラルーシの国境近くまで前進することに成功。

1945年
1946年
1947年
1948年
1950年

1953年

  • 1月13日 -「医師陰謀事件」発表[14]
  • 3月5日 - スターリン死去。マレンコフが閣僚会議議長に就任[14]
  • 6月 - 東ドイツで労働者蜂起[14]
  • 6月26日:ベリヤ逮捕[14]
  • 9月:フルシチョフが共産党第一書記に就任[14]

1955年

  • 2月8日:ブルガーニンがマレンコフに代わり閣僚会議議長に就任[14]
  • 5月14日:ワルシャワ条約機構発足 [14]
  • 7月:ジュネーブ・サミット[14]

1956年

  • 2月14日~25日:ソ連共産党第20回大会、フルシチョフの「秘密演説」[14]
  • 4月:コミンフォルム解散[14]
  • 10月23日~11月4日:ソ連軍、ハンガリー革命を鎮圧[14]

1957年

  • 6月17日~29日:「反党グループ」(マレンコフ、モロトフ、カガノヴィチ)がフルシチョフに対抗[14]
  • 10月4日:ソ連、地球初の人工衛星スプートニク打ち上げ[14]

1958年

  • 3月27日:フルシチョフ、ブルガーニンに代わり閣僚評議会議長に就任[14]
  • 10月~11月:ノーベル賞受賞者ボリス・パステルナーク反対運動[14]
  • 11月27日:フルシチョフ、ベルリン危機を扇動[14]

1959年

  • 9月:フルシチョフ、米国訪問、 「キャンプ・デービッドの精神」[14]

1960年

  • 5月1日:アメリカのU-2偵察機がソ連上空で撃墜される[14]

1961年

  • 4月12日:ユーリ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行士となる[14]
  • 6月:フルシチョフとケネディがウィーンで会談する[14]
  • 8月:ベルリンの壁が建設される[14]
  • 10月17日~31日:ソ連共産党第22回大会開催スターリンの遺体がレーニン廟から撤去される[14]

1962年

  • 6月2日:ノヴォチェルカッスクで暴動[14]
  • 10月22日~8日:キューバ危機[14]

1963-69年

  • 1963年8月5日:核実験禁止条約調印[14]
  • 1964年 10月14日:中央委員会によりフルシチョフ第一書記が解任され、

ブレジネフが後任に就任[14]

  • 1965年 コスイギン、経済改革の導入を試みる。4月24日:アルメニア人がジェノサイド50周年を記念してエレバンでデモ行進[14]
  • 1966年 2月10日~14日:シニアフスキーとダニエルの裁判[14]
  • 1968年 8月20日~1日:ソ連軍がチェコスロバキアに侵攻、占領[14]
  • 1969年 10月:ソルジェニーツィン、ノーベル文学賞受賞[14]

1970-79年

  • 1971年 9月3日:ベルリンの地位に関する四カ国協定調印[14]
  • 1972年 5月22日~30日:ブレジネフとニクソンモスクワでSALT Iに署名した。デ・タントの時代[14]
  • 1975年8月1日:ヘルシンキ協定調印、12月:サハロフ、ノーベル平和賞受賞[14]

~1977年10月7日:ソ連新憲法採択[14]

  • 1979年12月24日~6日:ソ連軍、マルクス主義政権支援のためアフガニスタンに侵攻[14]

1982-85年

1986年

1987年

  • 1987年10月~11月:エリツィンが党指導部を批判した後、降格[14]

1988年

1989年

  • 4月9日:グルジアのトビリシでデモが暴力的に鎮圧される[14]
  • 5月25日:人民代議員大会開催[14]
  • 11月9日:ベルリンの壁崩壊[14]

1990年

  • 1月:ソ連軍が暴動鎮圧と秩序回復のためアゼルバイジャンに進駐[14]
  • 3月6日:ソ連憲法第6条が削除[14]
  • 10月15日:ゴルバチョフがノーベル平和賞を受賞[14]

1991年

1992年

  • 1月2日:ガイダル、いわゆる「ショック療法」的経済政策を開始[14]
  • 3月:シェワルナゼがジョージアで政権に復帰[14]
  • 12月14日:ガイダルに代わりチェルノムイルジンが首相に就任[14]

1993年

  • 4月25日:国民投票でエリツィンの改革政策が支持される[14]
  • 6月:アゼルバイジャンでアリエフが政権に復帰し、人民戦線を打倒[14]
  • 9月21日:エリツィン、ロシア議会を解散し、国家院選挙を招集[14]
  • 10月3日~4日:議会支持派と大統領支持派の衝突[14]
  • 12月12日:国家院選挙で急進的な改革派が拒否され、民族主義者と元共産主義者が支持された。新憲法の批准[14]

1994-2000年

  • 5月:アルメニア、アゼルバイジャン、カラバフ、ロシアがカラバフ紛争の停戦に合意[14]
  • 12月11日:ロシア軍がチェチェンに侵攻[14]
  • 1996年6月~7月:エリツィンがロシア連邦大統領に再選。8月31日:モスクワとチェチェンの間で和平協定が締結[14]
  • 1999年12月31日、エリツィン辞任、プーチンが大統領代行に就任[14]
  • 2000年3月26日:ウラジーミル・プーチンがロシア連邦大統領に[14]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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